1883.担い手の育成
「えぇ。書きましょう。私も、弟に私が無事だと伝われば嬉しいですし」
「ほ、本当ですかッ? 有難うございます!」
「有難うございます!」
西教区農業組合長と幹部二人が、何度も礼の言葉を繰り返す。
リストヴァー自治区の農政部長が、農家の三人を横目に言った。
「では、本題に入りましょう。種子の分配ですが、春蒔き品種の一部に関しましては、学校に配布する案があります」
西教区のヌーベス司祭が難色を示す。
「校庭を畑にするのですか?」
「いえ、プランターを設置します」
農政部長は、反対を予想済みだったらしく、すらすら計画を述べた。
今年中に木工の実技実習として、中高生に焼板加工したプランター、小学生には蔓草で種苗ポットを作らせる。
理科の授業で植物栽培の基礎を教え、家庭菜園の成功率を底上げする。農家以外の者も、農村地区でアルバイトしやすいよう、農業の基礎知識を教えるのだ。
「ネミュス解放軍による襲撃で、農家には甚大な人的被害が出ました。また、襲撃前にアーテルやネモラリス島内各地へ避難させた子供たちも、いつ戻れるか、見通しが全く立たないのです」
農業組合長が、閉め切った窓の向こうへ目を遣った。
星の標の幹部たちは、抜け駆けして妻子を他所へ逃がしたものの、アーテル共和国では魔獣が大量に出現するなど、状況が急激に悪化。また、アーテル領内は通信不能に陥った。
自治区側も、政府軍がクブルム街道を巡邏するようになり、ラクリマリス王国の電波に便乗するインターネットでの情報収集が難しくなった。
ネミュス解放軍に約束させられた「星の標アーテル支部が持つ魔哮砲に関する情報」を収集する活動も出来ない。
運び屋フィアールカは、度々クフシーンカ宅を訪れるが、彼女は解放軍の配下ではない。
麻疹ワクチンの件では、ネミュス解放軍と手を結んだらしいが、ラクエウス議員らの武力に依らず平和を目指す活動に参加する者だ。
「将来、農業の担い手が不足すれば、今以上に生活が苦しく……いえ、自治区民の生存が危ぶまれる状況に陥る可能性すらあります」
農政部長が懸念を口にすると、農業組合幹部の二人が畳みかけた。
「材料不足で休業中の工場にも、プランターを設置し、我々が栽培指導します」
「食料を生産できる人材を一人でも多く育成したいのです」
「無論、我々本職の農家も畑で栽培しますよ」
「学校は土の準備がありますが、来春までにまた山から取って来て、シーニー緑地で一旦、寝かせます」
「工場では、今、緑地にある土で夏蒔きと秋蒔きのものを育ててもらおうと思っています」
農業組合長と幹部二人が計画を語るが、ヌーベス司祭は表情を動かさずに耳を傾ける。
東教区のウェンツス司祭が質問した。
「もう各工場への説明はお済みですか?」
「いえ、まだこれからです。司祭様にもご同席いただけましたら、助かります」
「工場長など、責任者を集めて、一度に済ませた方がよろしいでしょうね」
「学校の講堂などを使わせていただけますと、有難いのですが」
農業組合長が区長を見た。
「教育委員会に相談してみます」
「この際ですから、東教区にも少し、農地を拓いてみてはいかがでしょう?」
ヌーベス司祭がやっと口を開き、農業組合の者たちを見回す。
三人とも、何とも言えない顔になった。
……さては、安く使える小作人が欲しかったのね。
クフシーンカは、西教区のヌーベス司祭がいい顔をしなかった理由がわかった。
現在も、農家でアルバイトする者は居る。彼らは、ネミュス解放軍の襲撃で店を失った商店主など、農業の素人ではあるが、付合いの件もあって農家側が強く言えない者が多かった。
東教区から住込みで雇えば、安く使える上に何かと都合がいいのだろう。
冬の大火の後も、焼け出されたバラック街の住民が、農家に住込みの仕事を求めた。だが、彼らは仮設住宅ができた途端、東教区へ帰ってしまった。
余程、待遇が悪かったと見える。
その後、僅かな食料の支給でクブルム街道の整備に精を出し、山から降ろした土で家庭菜園を始めた。
幹部の一人が、何をバカなコトをと言いたげに疑問を投げる。
「農地なんてどこに造るんです? 東教区はシーニー緑地の手前まで、塩害で土地がダメでしょうに」
「山裾をもう少し伐採して、緩衝地帯と農地を造ります。土砂災害が起きるといけませんので、ほんの少しですが」
ヌーベス司祭が区長を見ると、無言で顎を引いて先を促した。
「農地は当面、区の所有としますが、将来的には東教区住民の個人所有か、町内会単位の共同所有にしてもいいでしょう」
西教区の農地に比べれば微々たるものだが、東教区でも家庭菜園以上の規模で食料生産ができるようになる意義は大きい。
クフシーンカは、口を挟まず成行きを見守る。
区長と農政部長、ウェンツス司祭は、ヌーベス司祭に賛成らしく、興味深々で続きを待つ。
農業組合の三人は、顔に苦いものを滲ませるが、何も言わなかった。
「上手くゆくかわかりませんし、伐採や整地など様々な準備が必要で、実現には数年掛かるかもしれません。それでも、食料生産の手段を複数用意するのは、決して悪いことではありません」
「食料が少しでも多くゆき渡れば、治安の向上にも希望が持てます」
ヌーベス司祭の言葉を受け、東教区のウェンツス司祭も言った。
現在でも、仮設住宅のプランターからは野菜が、共同台所からは鍋などの調理器具が、物干し場からは洗濯物が盗まれがちだ。
それでも、バラック街だった頃と比べれば、遙かにマシになった。
罹災者支援事業で仕事を増やし、料理教室や識字教室などで「教育を受ければ食べ物を得られる」ように手配した。
生まれ育った環境のせいで「奪うことしか知らなかった層」が、正当な手段で食い扶持を稼ぐ経験を重ねた成果が現れ始めたのだ。
「畑が増えれば、就労場所も増えます。手で扱える農具を分けてもらえないか、手紙に書いてみますね」
クフシーンカが言うと、農業組合の三人はすっかり諦めた顔で、欲しい種子の種類を並べた。
☆ネミュス解放軍による襲撃……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照
☆襲撃前にアーテルやネモラリス島内各地へ避難させた子供たち……「629.自治区の号外」「630.外部との連絡」「1434.未来の救世主」参照
☆アーテル領内が通信不能……「1223.繋がらない日」~「1225.ラジオの情報」参照
☆ネミュス解放軍に約束させられた……「0939.諜報員の報告」参照
☆麻疹ワクチンの件では、ネミュス解放軍と手を結んだ……「1259.割当ては不明」参照
☆ミュス解放軍の襲撃で店を失った商店主など……「1579.役割の固定化」参照
☆バラック街の住民が、農家に住込みの仕事……「0212.自治区の様子」参照
☆僅かな食料の支給でクブルム街道の整備……「419.次の救済事業」「420.道を清めよう」「442.未来に続く道」「453.役割それぞれ」参照
☆山から降ろした土で家庭菜園……「1578.炊事場の視察」参照
☆塩害で土地がダメ……「0019.壁越しの対話」「0026.三十年の不満」「442.未来に続く道」参照
☆共同台所からは鍋などの調理器具が、物干し場からは洗濯物が盗まれ……「1580.衣食足りても」参照




