1873.問題点の確認
ネモラリス共和国の戦争難民を収容する難民キャンプは、アミトスチグマ王国領の大森林に設置された。
有史以来、人が居住したことのない地を拓き、俄か造りした仮住まいは、アミトスチグマ王国領ではあるが、居住者はすべてネモラリス人だ。
「我が国の行政機関は設置しておらず、軍も、魔獣などから守る警護部隊を派遣しておりません」
アミトスチグマ人のジュバーメン議員が、申し訳なさそうに首を竦める。
アミトスチグマ王国軍は、テント村しかなかった頃には、少数の部隊が警備出動した。
現在は、北隣に位置するジゴペタルム共和国に不穏な動きがあるとのことで、国連平和維持活動で組織された平和維持隊として、王国軍の部隊をノチリア共和国とジゴペタルム共和国の国境付近に手厚く配備する。
元より、余剰人員などない。
難民キャンプは紛争地域外にある為、国連平和維持軍の治安維持活動は、検討すらされなかった。
また、アミトスチグマ王国の行政機関が関与するとなれば、その資金の出所は、王国民が払った血税だ。
開戦の数年前から、世界的な景気後退の波を受け、アミトスチグマ王国でも、若年層を中心に失業率が上昇傾向にある。
特に力なき陸の民は、湖の民や力ある陸の民と比較すると深刻だ。
失業率は五倍高く、平均賃金は三十パーセント近く低かった。魔法使いの正規雇用率は八十パーセント台だが、力なき陸の民は半数程度にまで落ち込む。
徽章を持つ専門家が魔法使いの平均賃金を押し上げるが、魔力の有無は生まれつきのものだ。本人の努力で、後天的に身につけられるものではない。
力なき民でも、作用力を補う【魔力の水晶】を握って呪文を正確に唱えれば、行使できる術もあるが、ほんの僅かだ。
社会構造で固定化された格差は、絶望と羨望、諦めと恨みを醸成する。
平穏に流れて見える世間の下では、表出さえできない暗い感情が澱む。
流入したネモラリス難民は、その矛先を向ける格好の標的なのだ。
国会議員のジュバーメンが、パテンス市議ロストークを横目に言う。
「手厚い保護は、国民感情を逆撫でし、却ってネモラリス人への風当たりを強くしますので、なかなか手を出し難いのですよ」
アミトスチグマ王国の役人が、ネモラリス建設業協会に「要の木を伐採して車道を作れ」と言ったのも、つまり、そう言うことだ。
各区画へ車両で行けるようになれば、民間の支援が行き渡りやすくなる。
「終戦したとしても、直ちに帰還できるとは限らないので、例えば、残ると決めた人が十分の一でも居れば、難民キャンプは“入植地”になります」
ロストーク市議が、会議机の上で頻りに手を揉んで言う。
四十万人が四万人に減っても、ネモラリス島のホールマ市と同規模の都市だ。ネモラリス共和国では、人口千人前後の農村や漁村が、各地に点在する。
難民キャンプの住民は現在、アミトスチグマ王国に納税しておらず、王国政府も課税を云々しない。
だが、都市と同程度の人口がこの先何年も、非課税で、逆に税金から支援を受けて暮らし続けるとなれば、アミトスチグマ人の反発は強まるだろう。
王国政府は、産官学共同研究を起ち上げ、大森林の植生調査や野生動物、魔獣の分布調査などを実施中だ。
難民キャンプの住民は、大森林で狩猟・採取した動植物の試料を提供し、調査に協力する。研究班は、調査協力費名目で、提供者が居住する区画単位で食料品を支払った。
その結果、大森林に接する端の区画には余裕が出て来たが、中心部の区画はその恩恵に与れず、区画間で格差が広がった。
「難民キャンプは、食料品を備蓄できる状態になく、毎日ギリギリのところで生活しております。経済制裁の前までは、辛うじて一日二食でしたが、一日一食に逆戻りした区画もございます」
呪歌の指導で頻繁に足を運ぶオラトリックスが、沈痛な面持ちで、アミトスチグマ人の政治家に言う。ジュバーメン議員とロストーク市議は、硬い表情でソプラノ歌手の話に耳を傾けた。
「先週頃から、配給の保存食を盗られたとか、収穫前のお野菜を抜け駆けして食べてしまった人が居るなどと言うお話が、私の耳にまで入るようになりました」
難民キャンプ開設初期は、国連の救援物資が滞りがちで、食うや食わずやだったが、盗難が起きたとの報告はなかった。
その後、各方面から支援が増え、一日一食は行き渡るようになり、支援の更なる拡充や難民自身の努力によって、一日二食行き渡るようになって来た。
「暮らしがマシになってきた矢先にこの仕打ちですから、絶望が刹那的な行動に走らせるのでしょう。配給を巡る喧嘩で、診療所に担ぎ込まれる人が増えました」
呪医セプテントリオーも、壁面に投影されたグラフから、自分の手許へ視線を落とした。
「食べ物は食べてしまえば証拠が残りませんし、お鍋とか共有の物が多いから、他人の物と自分の物の区別が曖昧になってくる人が居ても、不思議はありません」
アミエーラの発言には、リストヴァー自治区で暮らした頃の苦い記憶に根差した実感が籠もる。
「貧すれば鈍すると申しますが、規範意識と秩序を早急に回復させなければ、難民キャンプ内で特に弱い層が、今年の冬を越せない惧れがあります」
大口支援者のマリャーナが、溜め息混じりに一同を見回す。
ラクエウス議員は、リストヴァー自治区東部のバラック街を思い出した。
日々の食事にも事欠く貧困生活を送る者が多く、聖者キルクルスの教えは、犯罪の抑止力にはならなかった。
キルクルス教は、三界の魔物が齎した惨禍の反省から生まれ、聖典には、人の行動を規制する規範に関する記述が多い。その教えが行き渡る自治区でさえ、あのザマなのだ。
フラクシヌス教は、旱魃の龍の封印維持を主眼に置き、自然崇拝に近い多神教だが、こちらも、犯罪の抑止力たり得ないらしい。
「残念ながら、事件を起こす者たちは、祖国の法が及ばぬ地では、信仰など、精神論的なものでは行動を改めんでしょうな」
「しかし、性悪説に基づいて対処するとなると、警察力が必要になります」
ジュバーメン議員が、キルクルス教徒であるラクエウス議員の指摘に険しい顔を向け、言外に「それができないから困っているのだ」と滲ませる。
「もっと寄付を集めて、ひもじくならないようにするしかないんですね」
ファーキルが言うと、難民キャンプ向け物資調達の継続を宣言したマリャーナが頷いた。
☆アミトスチグマ王国軍は現在(中略)ノチリア共和国とジゴペタルム共和国の国境付近に手厚く配備……「1587.統計から見る」参照
☆開戦の数年前から、世界的な景気後退……「435.排除すべき敵」参照
☆若年層を中心に失業率が上昇傾向……「1186.難民支援窓口」参照
☆特に力なき陸の民は(中略)深刻……「1185.変わる失業率」参照
☆要の木を伐採して車道を作れ……「1184.初対面の旧知」「1185.変わる失業率」参照
☆ネモラリス島のホールマ市……「1501.公約の問題点」参照
☆産官学共同研究……「1588.能動的な要望」「1608.大森林の道路」参照
☆一日一食は行き渡る……「0291.歌を広める者」参照
☆フラクシヌス教は、旱魃の龍の封印維持……「1026.関心が異なる」「1307.すべて等しい」「1308.水のはらから」参照
伝承……「0230.組合長の屋敷」「0234.老議員の休日」「487.森の作戦会議」「671.読み聞かせる」参照
聖職者らの認識……「534.女神のご加護」「542.ふたつの宗教」「588.掌で踊る手駒」「604.失われた神話」「605.祈りのことば」参照
封印の中心地……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照
湖水との関係……「821.ラキュスの水」「874.湖水減少の害」「1391.二年目の舞台」参照




