1871.効力なき権力
黒髪の歌姫アルキオーネは下唇を噛み、難民キャンプで発生した事件の種類別円グラフを睨む。
難民キャンプの人口は、アミトスチグマ王国政府が把握できただけでも、約四十万人。出産と死亡、移動で多少の増減はあるが、ほんの二年ばかりで、大森林に中規模の都市が出現したに等しい。
通常の都市と異なるのは、共同体の維持に必要なものが、何もない状態で出発したことだ。
井戸と住居、診療所は辛うじて行き渡ったが、上下水道、電気、ガスはない。
生産手段と就労場所を兼ねる畑はできたが、収穫は気休め程度しかなかった。
魔物などから集落を守る防壁はなく、不完全な土塀と木柵で凌ぐ。
井戸を中心として、取敢えず、建てられる場所に丸木小屋を作った為、道路はほぼ整備できなかった。
通信は、寄付された僅かなタブレット端末と、車両が通れる位置に停めたアンテナ車で細々と繋がる。
だが、これも、武器禁輸措置と経済制裁を受け、通信事業者がアンテナ車を撤収した。端末は慈善団体名義で、まだ契約は有効だが、電波が届かなければ、どうにもならない。
保存した地図や動画、辞書、ニュースなどで学習補助はできるが、新たな情報は入り難くなった。慈善団体との連絡も、直接来てもらわなければならず、支援者の負担が増す。
教材は寄付で少し増えたが、教えられる人材は不足する。子供への基礎教育も、大人への専門教育や労働安全衛生教育も停滞しがちだ。
学校だけでなく、保健所、役所などもない。
難民キャンプ産まれの子は、出産時のカルテ以外に身元や存在を証明するものがなく、帰国後に国籍の扱いがどうなるか不明だ。
ネモラリス共和国内では、空襲被害に遭わなかった地域で地方選挙が実施されたが、難民キャンプには知らされず、在外投票できずに終わった。
警察、裁判所もなく、秩序と治安は、難民のモラル任せなのだ。
難民キャンプ内での仕事は、生活維持、食料生産、商品製造に大別される。
自警団は生活維持系の仕事だが、魔物や魔獣、野生動物の対応で手いっぱい。難民キャンプ内の人間に向ける治安活動までは到底、手が回らなかった。
自警団の人員を拡充しようにも、戦う意志と力を持つ者は、そう多くない。
また、自警団員が必ずしも、法と秩序を重んじる公明正大な人物とは限らなかった。大半が、報酬として支払われる食料目当てで引受けた者なのだ。
生活維持に必要な魔法の行使と魔力の負担が、限られた魔法使いの肩に重く圧し掛かる。それだけでなく、農作業や結界の維持、道具の作成、呪符や【水晶】への魔力の充填など、生産活動でも多忙だ。
アルキオーネが、政治家たちを見回す。
「難民キャンプの事件は、放置か私刑って、まるで無法地帯じゃないですか」
「私たちが聞き取り調査などに行った際、相談があれば、ある程度は対応するのですが、これがなかなか」
「国会議員が言ってもダメなんですか?」
黒髪の歌姫がアサコール党首に聞くと、自治区出身のアミエーラが、ラクエウス議員を見た。
老議員は、開戦初年には何度か難民キャンプの視察へ行けたが、近頃は夏の都にあるネモラリス大使館へ足を運ぶだけでやっとだ。
事件より事故の方が多かった頃しか見ておらず、その後の状況は、報告書と会議でしか知らなかった。
「政治家は、会議などを通じて対外的な交渉もするが、基本的に意思決定機関の構成員だからな」
ラクエウス議員が一般論を述べると、ネモラリスの亡命議員とアミトスチグマの地元議員は頷いた。だが、アミエーラとアルキオーネ、それに三人の職人も釈然としない顔を向ける。
「我が国は、自治区も外も同じ三権分立で、司法、立法、行政がそれぞれ独立しておる」
「私たち政治家は、立法府でみんなの意見を集約して、対立する利害関係を調整して、法律や政策を決めるのが主な業務なのです」
モルコーヴ議員も教科書通りの答えを並べる。
「そして、それを実行するのが行政の役割だ。警察も軍隊も役所も、行政機関のひとつなのだよ」
「えっ? 軍隊もなんですか?」
アミエーラが驚きの声を上げ、アルキオーネは形の良い黒い眉を顰めた。
「軍が文民統制下にある国では、そう看做す所が多いですね。軍が政権を掌握する国や、独裁者の直下に軍がある国は別ですが」
アサコール党首が言うと、国家運営などに疎い六人はやっと頷いた。
党首は満足げに頷き返して続ける。
「司法は、立法府が憲法などの基本原則や、批准した条約などに違反する法を作らないように監視し、作ってしまった場合は、立法府に廃止を促します。また、身近なところでは、施行済みの法律を国民に守らせる機関でもあります」
「裁判所とかですね?」
「そうです。但し、事件が発生した際、捜査して犯人を逮捕するのは、行政機関であり、司法捜査機関でもある検察や警察の仕事です」
「どうしていちいち分かれてるんですか?」
アルキオーネたち「平和の花束」は、アーテル共和国で「瞬く星っ娘」として活動した当時、アイドル業が多忙を極め、学校にもあまり行けなかったと言う。
恐らく、報告書に目を通しても、わからないことが多いのだろう。
「権力の集中を避ける為だよ」
アルキオーネの隣で、ファーキルが答えた。
「一部の権力者が司法・立法・行政を全部握ってるのが独裁」
「あ、それは分けなきゃね」
「独裁でも、上手く回ってて誰も迫害されない状態なら、効率いいシステムさ。制度としては民主主義だけど、国民が望んで、大統領とかに権力を集中させる国も割とあるよ」
「え? そうなの?」
アルキオーネが目を丸くして一同を見回す。
アサコール党首がひとつ咳払いして、仕切り直した。
「話が少々逸れましたが、難民キャンプでは司法・立法・行政の公的機関がひとつもありません」
「えっ? では、どうしているのですか?」
歌手オラトリックスは、呪歌の指導や、【道守り】による結界の敷設で何度も難民キャンプに足を運ぶが、人間同士の事件に出くわしたことはないらしい。
「普段の揉め事は、難民の弁護士、あるいは退官した裁判官や検察官ら、法曹が対処しますが、効果は限定的です」
「どうしてなんです? 現役のプロと元プロですよね?」
アルキオーネが不思議そうにアサコール党首を見る。
「逮捕や刑罰を執行する権限がなく、それらを実行する為の暴力装置もないからです」
難民キャンプでは、犯行現場を押えた際、直ちに行われる私刑は横行するが、正規の法と手続きに則った刑の執行は不可能だった。
☆井戸と住居、診療所……「929.慕われた人物」参照
☆生産手段と就労場所を兼ねる畑……「1178.売上げの寄付」「1185.変わる失業率」「1368.素材等の需要」参照
☆不完全な土塀と木柵……「1719.区画毎の特性」「1608.大森林の道路」参照
☆道路はほぼ整備できなかった……「1608.大森林の道路」「1684.孤独を埋める」参照
☆車両が通れる位置に停めたアンテナ車……「806.惑わせる情報」参照
☆空襲被害に遭わなかった地域で地方選挙が実施……「1516.投票理由分析」参照
☆開戦初年には何度か難民キャンプの視察……「415.非公式の視察」「425.政治ニュース」参照
☆学校にもあまり行けなかった……「730.手伝いの手配」参照




