1870.法秩序の欠如
司会のアサコール党首がプロジェクターを操作した。
白壁に投影されるものが、難民キャンプの月別食料調達量のグラフから、事件・事故発生件数グラフに切替わる。
印暦二一九一年の難民キャンプ開設から、印暦二一九三年五月末までの発生件数を示す棒グラフだ。
事件と事故で、二色に塗り分けてある。
開設当初は、事故が圧倒的に多かったが、丸木小屋の建築作業が一段落した頃から、事件が増加。第三十区画が開拓される頃には、逆転した。
「しかしこれは、我々やアミトスチグマ王国医師会、パテンス神殿信徒会など、難民キャンプ外の支援者が、怪我の治療や難民からの訴え、聞き取り調査などで把握できたものだけです」
「実際は生活を回すだけで精一杯で、被害を訴えることすらできない事件が、相当数あると推測されます」
アサコール党首に続いて、モルコーヴ議員が沈痛な面持ちで言う。
壁に投影されたグラフが、事件の種別グラフに変わった。
今年五月までの全期間に発生した犯罪類型別円グラフだ。
盗犯の割合が最も高いのは、実際の件数もさることながら、被害を部外者に伝えやすいからと言うのもあるだろう。
「私物や配給品が盗難に遭った方々は、取り返して欲しい、早く代替品が欲しいとの要望を出しやすいので、比較的把握しやすいのです」
「え? 犯人を捕まえて欲しいじゃなくて?」
黒髪の歌姫が、疑わしげな目を亡命議員に向ける。
丸木小屋の建築支援などに行ったジェルヌィが、アサコール党首が答えるより先に言った。
「警察も裁判所もないのに捕まえてどうするんだ? それより、盗られた物の埋め合わせの方が優先順位高いだろ」
「あっ! えっ……で、でも、泥棒を野放しにしたら、また盗られるじゃない」
「私的制裁による犯人の負傷や、奪い返そうとして乱闘になった末の負傷が、傷害事件のかなりの割合を占めます」
歌姫アルキオーネの反論には、呪医セプテントリオーが答えた。
「あっ……」
丸木小屋を建てる為、工具はすぐ手が届く所にある。
割れやすいガラス瓶も多い。缶詰の蓋は鋭利な刃物と同じだ。
石で殴られ、顔面を骨折した者や、眼球が破裂した者、再犯防止にと両腕の骨を折られた者も居た。
呪医セプテントリオーが、難民キャンプで診た「事件絡みの症例」を挙げると、アルキオーネとアミエーラ、それにパテンス市議ロストークが顔色を失った。
アサコール党首が苦い顔で付け加える。
「負傷者が窃盗犯などの場合、私的制裁の一環として、周囲が治療を受けさせないこともあるのです」
そうでなくとも、難民キャンプには、外科領域の呪医や、魔法薬で傷と病を癒す呪医や薬師が常駐する区画が少ない。
科学の医療者が常駐する区画でも、医薬品や資機材が慢性的に不足し、消毒すらできない日も多かった。
可能な限り、応急処置を施して傷を清潔に保ち、科学の医薬品か、力なき民でも扱える魔法薬、あるいは魔法の巡回医療者を待つしかないのだ。
その間に傷が化膿するなどして助からなかった者や、化膿範囲の切断を余儀なくされた者も居る。
難民キャンプには、欠損部位を再生できる【有翼の蜥蜴】学派の呪医は居ない。
さらに言えば、犯人を密かに殺害し、遺体を【炉】の術で灰にされた場合は、事件の発生自体、把握できなくなる。
モルコーヴ議員が溜め息混じりに言った。
「それに……犯人が魔法使いの場合は、生活の多くを彼ら彼女らに頼るしかありませんから、気兼ねして誰にも言えない人や、同調圧力で“手間賃だと思って何も言うな”と泣き寝入りさせられることも多いのです」
難民キャンプに逃れた者は、力なき陸の民が圧倒的に多い。
森林を切拓いた急拵えの居住地には、電気、ガス、水道などがなく、身を守る防壁もない。
調理に必要な【炉】、【操水】による井戸の水汲み、清掃、入浴、洗濯、食器洗い、屎尿処理、【魔除け】や【退魔】の行使、【灯】で室内の照明など、魔法使いに頼らなければ、生きてゆけないのだ。
幾つかの術は、作用力を補う【魔力の水晶】を使えば、力なき民でもできる。
だが、【水晶】への魔力充填は、湖の民か力ある陸の民でなければできない。
また、魔力を持つ者は、ただそこに居るだけでも、丸木小屋の【魔除け】や【耐寒】【耐暑】【防火】など各種防護の術を維持する力を供給する。
パンテンス神殿信徒会など、外部ボランティアによる支援もあるが、平日昼間に来られる者は限られ、夕方には引揚げる。
彼らにも、自分たちの生活がある。
魔法使いの犯行が発覚するのは、バザーで街へ出て神殿に参拝した際、被害者が神官にこっそり困り事を相談するからだ。
盗られたのが消耗品の類なら、密かに被害を埋め合わせられるが、思い出の品を取り返すことまではできない。
苦しみを打明けるだけでも、心が軽くなると言って帰ってゆく姿が悲しかった。難民キャンプ内では、決して言えないのだ。
白髪混じりの建築職人が、誰とも目を合わさずにポツリと呟く。
「犯人が自警団員ってコトもある。まぁ、難民キャンプの暮らしは大変で、力なき民の分までいっぱい働いてんだから、もっと報酬寄越せって奴が居ても、不思議はないんですよ」
「俺たちは、アミトスチグマ建設業組合の人が、居候させてくれるんで、そう言う苦労はないんですけど」
「井戸掘りや丸木小屋建設の報酬みたいなもんだから、遠慮すんなって言われましたし」
もう一人の職人とジェルヌィが、申し訳なさそうに机を見詰めて言った。
難民キャンプで暮らす建築職人は、一緒に避難できた家族が多いなど、受容れ条件が合わなかった者だけだ。
若い女性の居る場で口頭伝達するのは憚られるが、今回配布された資料には、難民キャンプ内で産まれた「父親不明の子」の人数も記載がある。
役務や物品の対価として、双方合意の上で取引が成立した場合も含まれる為、全例に事件性があるワケではないが、よろしくない傾向だ。
歌手オラトリックスたちが、呪歌【癒しの風】の普及に力を入れるのは、医療体制の強化だけでなく、望まぬ接触から若い女性や少年たちを守る為でもあった。
癒し手に手を出す者は流石に居ない。【渡る白鳥】学派の【白鳥の乙女】の制約は強力だ。事件の発生があれば、隠し通せるものではない。
それとても、パテンス市行政書士組合や、アミトスチグマ王国司法書士組合の協力がなければ、実効性を持たせられなかっただろう。




