1815.流入する棄民
薬師アウェッラーナは、久し振りに気持ちが明るくなった。
アガロート養殖場で、他から隔離された濡首獣の区画を見学中、兄のアビエースが職員の一人と魚談義で意気投合。彼の休日、一緒に釣りをしようと誘われた。親戚がマチャジーナ漁協の漁師で、時々自然の沼で釣りをさせてくれるのだと言う。
アウェッラーナの兄は漁師だが、沼での釣りは未経験だ。開戦前は、半世紀の内乱時代も含め、漁船でラキュス湖へ出て、投網と【漁る伽藍鳥】学派の術を組合せて、一気に大量に獲る漁法だった。
「竿は私の予備を貸します。魚と一対一の真剣勝負。なかなか乙なもんですよ」
最初は遠慮した兄も、熱心に勧められて終に乗り気になった。
約束は明日だが、兄は今朝から機嫌がいい。血圧も僅かに下がった。
アウェッラーナは少し安心して、ソルニャーク隊長、ラゾールニクと三人でランテルナ島へ跳んだ。
見学の土産に多刺蟹の甲羅を一人一個もらった。
相場がわからないので、これで呪符を何枚売ってもらえるか、確認と買物。そして、前回ロークと話せなかったので、可能な限り情報交換もしたい。
「まぁ。後で報告書のデータもらって、読めば済むハナシだけどな」
「膨大な量を同僚に内緒で読むのは至難の業だな」
ラゾールニクとソルニャーク隊長が、地上の街カルダフストヴォーを油断なく窺いながら言う。
アウェッラーナは前回、郭公の巣のクロエーニィエ店長から、本土の住民が身ひとつで流入し、治安に懸念が生じたと聞いた。
実際、アウェッラーナたちも、それらしき者たちと何度もすれ違い、郭公の巣では職を求める父子にも遭遇した。
アウェッラーナは思い出しただけで、入浴も洗濯もできない者たちの体臭が脳裡を過り、吐き気を催した。
ほんの数日で、カルダフストヴォー市にはそんな身形の者が増えた。
歩道の木陰に置かれたベンチに座るのは、皮脂でベタつく髪にフケを浮かせた者ばかりだ。ヨレた新聞を所在なげに広げるが、視線は動かない。
アーテル本土で魔獣の大量発生後、魔獣駆除業者が報酬として、依頼人やその家族に【魔力の水晶】を握らせるようになったらしい。
大抵は日中、隣近所の目がある路上などで行われ、その後、業者が彼らに何もしなくても、魔力が発覚したキルクルス教徒は本土に居られなくなる。
迫害を恐れ、自らランテルナ島へ逃れる者も居れば、穢れた力を持つ者として追い出される者も居た。
家族の一部が力ある民だと知れ渡った場合、家族も居辛くなり、転居を余儀なくされるのは、想像に難くない。
地下街チェルノクニージニクに降りると、今回もまた、入浴できない者の体臭が鼻を突いた。
ラゾールニクが顔を顰めて見回す。階段を降りてすぐの場所だけでも、明らかに不潔な男性たちが六人見えた。
「求人広告の横にでも、宿屋でカネ払ったら、洗濯とかしてもらえるよって書いときゃいいのにな」
ラゾールニクは聞えよがしに声を張り上げたが、該当者たちは反応を示さなかった。
店頭に貼り出される求人条件は、「年齢・性別・経験不問。【操水】が使えること」が圧倒的に多い。掃除など簡単な作業をさせる為だ。
ネモラリス共和国では、魔法使いの居る家庭や事業所は、掃除用具がないところが多かった。力なき民の雇用創出で、敢えて手作業でするのでない限り、【操水】の術とバケツで事足りるからだ。
ランテルナ島でも、恐らくそうだろう。
気を取り直して呪符屋へ向かう。
「前の会社では十八年間、経理を担当しました。簿記の資格もあります。レジ打ちでも何でも結構です。雇っていただけませんか?」
「ウチはレジないし、現金の扱いもないよ」
肉屋のおかみさんが、背広姿の男性に素っ気なく応じる。
「えッ? クレジットカードのみと言うコトですか?」
「この島じゃ、そんなの使えないよ。カネなんかあったって、こうやって戦争が起きればインフレで紙屑同然になるし、カネだけあってもモノがなきゃどうにもなんないでしょうに」
肉を切り分けながら半笑いで言うが、年配の男性は真剣な顔で食い下がる。
「しかし、宿屋さんは」
「本土の人と取引がある店は、一応カネも使えるとこがあるけどね。ウチみたいに地元相手の商売でカネなんかもらったって、しょうがないじゃないのさ」
おかみさんは口調こそ荒っぽいが、年配の男性を店先から追い払わず、ランテルナ島の決まり事をしっかり説明する。
彼は島へ渡ったばかりなのか、宿で洗ってもらったのか、まだ小奇麗な身形だ。
「では、何か他の作業で雇っていただけませんか?」
「ウチは肉屋。【弔う禿鷲】学派の人でなきゃ、お肉触らせらんないの」
おかみさんの胸元で、食肉処理業者の証【弔う禿鷲】学派の徽章が揺れる。
男性は、保冷ケースの貼紙を指差した。
「資格が必要なんですか? しかし、この求人にはそんなコト」
「これは掃除やお遣いを頼む下働き。最低限【操水】と常識程度に物々交換の目利きができないとムリだよ」
男性は更に食い下がろうとしたが、買物客がおかみさんに声を掛けると、一礼して場所を譲った。
「宿に泊まっているなら、店員に【操水】の術を教えてもらえばいい」
ソルニャーク隊長に話し掛けられ、年配の男性が怪訝な顔で振り向く。
前回はメドヴェージが同様のことを言った。彼らはキルクルス教徒として、棄民となった力ある民でも、同じ信仰を持つ者を見捨てられないらしい。
肉屋のおかみさんは、隊長に視線を向けて会釈した。




