1809.食品工場再開
リストヴァー自治区東教区の北部に位置する小学校では、空き教室で大人向けの識字、裁縫、木工、衛生基礎教室を開講した。
識字教室の出席者は、一日につき一食分の堅パンが支給される為、職にあぶれた者の多くが通う。
講師はリストヴァー大学の学生などで、複数の教室を使い、一度に最大百二十人まで教える。
初級は聖歌の楽譜を教材にし、文字の形を一通り覚えた中級からは、古新聞や労働安全マニュアルなど実務の文書を教材にして、語彙力や読解力を培う。
ここからクブルム街道までは遠く、識字教室の学習内容についてゆけない者は、水汲みなどをして同じ仮設住宅の者から食料を分けてもらうらしい。
木工教室は、小学三年生程度の読み書きを受講条件に課し、簡単な入試を行う。
工場で採用された場合、注意書きを読めないことが原因で発生する労災事故を防ぐ為だ。木工教室で使う工具類も、危険な物が多い。
クブルム街道や、裾野の雑木林で調達した木材で棚などを作り、工具の扱いなどを訓練する。
まだ東教区では需要がない為、来月から、グリャージ港に来る輸送船の乗組員に販売を始めると言う。
衛生基礎教室はやや高度で、中学卒業程度の総合学力を求められる。
試験に合格した者だけが受講できる狭き門で、受講中は一日分の食料を支給される。公衆衛生などについて学び、一年後には卒業試験も課す。
講師は、この小学校の保健医と、自治区に駐留する政府軍の衛生兵だ。
卒業生は自治区の保健所に非常勤職員として採用され、東教区の食中毒予防、清掃指導、力なき民でもできる応急処置、感染症対策と蚤や虱の防除、感染症患者の早期発見と当局への連絡を担う。
裁縫教室には受講条件を設定しなかったが、識字教室を諦めた者の大半は、この道も諦めてしまった。
今日はクフシーンカが裁縫教室の講師に来たが、いつもは東教会で長く縫製作業に携わり、基本的なことなら教えられるところまで習熟した者が担当する。
チャイムが鳴り、午前の授業が終わる。
受講生たちは裁縫道具を所定の位置に返却し、作り掛けの品をロッカーに片付けて出て行った。保存食の配布場所へ急ぐ足取りは軽い。
何人かは、クフシーンカに挨拶の声を掛けて教室を後にした。
「店長さん、こんにちは。お昼、ご一緒しませんこと?」
菓子屋の妻が、他の教室から来てにこやかに誘う。
「午後は他の方が講師に来られるから、私はもう帰るところでしたのよ」
「あら、お疲れですか?」
「まぁ、この歳ですもの」
何か話したいことがあるのだと気付き、クフシーンカは誘ってみた。
「店長さん、今日の送り迎えも新聞屋さん?」
「今日は学生さんが車で送ってくれて、帰りもそのコが」
「遅くなってすみませんッ! 質問で捕まっちゃって」
リストヴァー大学の男子学生が、息を切らせて駆け込んで来た。
「急いで来てくれて有難うね。ゆっくりでいいのよ」
「店長さんとそこの商店街でお昼にしたいんだけど、学生さんもどう? ご馳走するわよ」
「えッ? いいんスか?」
「一回に注文できる量が決まってるから、おかわりはできないけどね」
識字教室の講師を務める青年は、大喜びでついて来た。
車は校庭の隅に置き、工場地帯と東教区の住宅街の間にある商店街へ行く。
工員相手の飲食店と、八百屋などの食料品店が大半を占めるが、電器屋なども営業再開に漕ぎつけた。
通り過ぎざまに見た限り、電器屋の商品はラジオと電池、数種類の電球だけだ。「電化製品の修理承ります」と大書した貼紙があり、当面は手間賃が主な収入源らしい。
住居兼店舗の入居が完了しても、かつての賑いには程遠い。
菓子屋の妻は、「パンは一人一個限り」の貼紙がある定食屋に二人を案内した。
メニューはなく、先客たちはみんな同じものを食べる。食器は寄付品で、大きさも色柄もバラバラだ。
「いらっしゃい」
「はい。これ、頼まれてた分」
菓子屋の妻は手提げ袋から小さな紙袋を出して、カウンター席の大将に渡した。空いた皿を下げたおかみさんが袋を覗く。
「あら、こんなにたくさん! 大変だったでしょうに」
「ふふふっ。それと、これで三人前、イケるかしら?」
ステンレスのナイフ、フォーク、スプーンを一本ずつカウンターに並べる。柄には植物の模様が刻印され、一目で高価だとわかる品だ。
「三人前? 向こう二週間はイケますよ」
「じゃあ、お言葉に甘えてまた来るわね」
三人は丁度空いた四人掛けの卓に案内された。
「昨日、食品工場が再開したんですけどね」
「何か困り事でも?」
菓子屋の妻は、卓に身を乗り出して声を潜めた。
「製麺所の工員さんたち、怖いからってみんな辞めちゃったし、私も、学校と山で働くことにしたんですよ」
「山ってマジっすか?」
学生が眉根を寄せる。
「兵隊さんが護ってくれるし、明るい内なら大丈夫よ。あれも昨日、クブルム街道から逸れたホントの山で採ってきた木の実なのよ。私は木の実とかをここに卸して、そのお代としてお昼を食べさせてもらって、識字教室の講師料でもらえる保存食は旦那と子供のお夕飯に回すの。店長さんには折角、お裁縫と編み物を教えていただきましたけど、何せ……その……じっと座って手作業してると、色々思い出してしまって」
菓子屋の妻は口数こそ多いが、いつもの元気がない。
星の標とネミュス解放軍の戦闘に巻き込まれ、大破した店舗の再建は遠い。
ようやく操業に漕ぎつけた共同の仮設工場で堅パンの製造を始めたが、製麺所の区画で発生した労災事故の対応で、全体の操業が停止してしまった。彼女も事故の瞬間に居合わせたのだ。
「リスク回避の為にも、ご夫婦でお仕事を分けたのは賢明ね」
菓子屋の妻は、クフシーンカの言葉を待っていたかのように顔を輝かせた。




