1808.意欲の底上げ
隣の教室から、キレイに音程が揃った聖歌が漏れる。
湖南語や共通語なら、クフシーンカでも歌詞の間違いに気付けるが、本来の歌詞で謳われては全くわからない。
聖歌は呪歌で、本来は魔力の制御符号である「力ある言葉」で謳うものだ。
勿論、歌声に魔力を籠めなければ、術の効果は発動しない。
クフシーンカは、縫製分野を修めた星道の職人だ。
若い頃、聖典に記された司祭の衣や祭衣裳に施す刺繍は、力ある言葉の呪文と魔力を巡らせる呪印だと、親友のフリザンテーマとカリンドゥラから教えられた。だが、発音までは聞かなかった。
星道の職人であるクフシーンカは、聖典の指示通り、間違いなく縫うだけだ。
隣の識字教室では、リストヴァー大学の学生が、東教区の聖歌隊候補生に聖歌の楽譜を教材にして文字を教える。
まず、湖南語の文字を少しずつ教え、歌詞から同じ文字を拾ってもらう。学習済みの文字だけを使った単語を幾つか教え、少しずつ知識を積み重ねてゆくそうだ。
聖歌隊候補生には、聖歌を湖南語と力ある言葉の両方教えるが、その他の受講生には湖南語だけだ。楽譜を見て、歌詞を目で追いながら謳う。
力ある言葉は、大学生にもわからない為、湖南語で発音を振ってあった。
聖歌で文字の形を一通り覚えた者は、次の級に進み、新聞や労働安全マニュアルなどを教材にやや難しい単語と読解を学ぶ。
「先生、ここ、どうすればいいっスか?」
裁縫教室の受講生に呼ばれ、クフシーンカは自分の役目に意識を引き戻した。
今日は、小学校の空き教室でマチ付き袋の作り方を教える。
袋の底にマチを作る工程は、黒板に図を書いて説明したが、まだ読み書きできない者が多く、何人もが度々聞きに来た。
地図でリストヴァー自治区を見ると小さく見えるが、徒歩以外に交通手段を持たない貧しい住民にとっては、それなりに広い。
東教会から離れた小中学校でも、職にあぶれた者が、裁縫教室や識字教室へ顔を出す。既に読み書きできる者は、新しい技能を身につけるべく、料理や木工などの講習会へ通う。
それぞれ時間をずらし、一日に幾つも掛け持ちで学べるようにしてあるが、識字教室の段階で躓く者も多かった。
識字教室は毎日、午前と午後に二時間ずつあり、その日の授業内容は同じだ。毎時、生徒を入れ変えるが、一回でわからなかった者は、何度受け直してもいい。
それでも、一部の者は「難し過ぎてわからない」と諦めてしまう。
読み書きできなくても、東教区南部の住民なら、クブルム街道へ登って薪拾いすれば、手間賃として保存食を一日に一食分もらえる。
堅パン、肉の缶詰、乾果の小袋がそれぞれ一個ずつで一組だ。
それまで食うや食わずや立った者たちは、「これで数日は凌げる」と、僅かな肉や干した果物にありつけただけで満足してしまう。
飲料水も、以前より手に入りやすくなり、仮設住宅は冬の大火以前のバラック小屋と比べれば、非常に住み心地が良い。そればかりか、週に一度は、役所が設営したテントで衣服と身体も洗える。
以前の暮らしが酷過ぎたせいで、満足の基準が著しく低いのだ。
欲をかく者は、他人から奪うことばかり考え、自ら学んで知識や技能を習得することで収入の向上を目指そうとしない。
東教区のみんなが今の暮らしに慣れ、これが当たり前になれば、もっと暮らしをよくしたいと向上心が増すかもしれないが、その頃には、いい仕事の採用基準も上がるだろう。
……お裁縫も無理な人が居るのよね。
冬の大火や魔物や魔獣の襲撃で負傷し、利き手が使えなくなった者には、他の仕事をしてもらう他ない。
長年の栄養失調で視力が衰えた者には難易度が高い。
手先があまりにも不器用で、五体満足でも細かい作業ができない者も居た。
裁縫の基本ができるようになれば、縫製工場で雇われる希望を持てる。
小麦や石炭用の袋など、需要が高い製品は、作業自体は簡単でも、大量生産の人手が必要だ。
採用に到らずとも、寄付された着られない古着を子供服や、布小物に仕立て直して交換品にできる。近所の繕い物を引受けて、手間賃を得られるかもしれない。
できることが増えれば、それだけ未来への希望も増えるのだ。
「あなた、筋がいいわね」
「ホ、ホントっスか?」
ひょろりと背の高い若者が背を丸めて頬を染める。
「縫い目の大きさがきちんと揃って、真っ直ぐキレイに縫えていますよ」
一人に説明すると、数人が席を立ち、教宅へ見に来た。
「へぇー。機械でやったみてぇに揃ってんだな」
「どうやって縫ったの?」
褒められた若者は、照れ笑いに困惑を混ぜるだけで、答えられない。
クフシーンカは話を逸らした。
「来月から、出来がいい品は、仮設病院の看護師さんたちが買って下さるそうですよ」
「えッ? 幾らでですか?」
「それはモノによると思うけれど、保存食と交換してくれるそうよ」
「直接、グリャージ区へ持ってくんスか?」
自治区民は、当局の許可証なしではここを出られない。
ネミュス解放軍の襲撃で破壊された検問所は、政府軍の駐留が始まってすぐ復活した。
「物の名称と整理番号、作った人の名前を書いた荷札をつけて、兵隊さんがまとめて検問所で売ってくれるそうよ」
「兵隊さんが? 売れた分ってどうなるんです?」
「その荷札と交換品が、作った人に戻る仕組み。渡すのはこの教室で」
看護師の多くは、トポリ市内の病院から派遣された。
インフラの復旧工事が進み、営業を再開した店舗は増えたそうだが、どこも品薄なのだろう。
自治区の品を売って欲しいとの話が出て、検問所に近い校区で作った手芸品や、アルミ缶を鎔かして作った鍋などを試験販売する件がまとまった。
「売れるのって、このくらいの出来ですか?」
「そうね。完成してみないとわからないけれど、そのくらいできれば上出来ね」
クフシーンカは、真っ直ぐに手縫いするコツを実演を交えて説明した。
素材が着られない古着では、袋などを作っても大した値は付かないだろうう。だが、何もしなければ、ゴミにしかならない。
売れ残っても、自治区内での交換品や、自家使用に回せる。
そもそもこれは、縫製技術習得の練習なのだ。技術以外はオマケに過ぎない。
「こんな風にゆっくりでいいですから、丁寧な仕上げを心掛けましょう」
席に戻った受講生の表情が変わった。
☆聖歌の楽譜を教材……「1738.聖歌の楽譜集」参照
☆リストヴァー大学の学生……「1739.残された魔法」参照
☆親友のフリザンテーマとカリンドゥラから教えられた……「555.壊れない友情」参照
☆識字教室……「1577.大人への教育」参照
☆冬の大火……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」「0212.自治区の様子」~「0214.老いた姉と弟」参照
☆役所が設営したテントで衣服と身体も洗える……「276.区画整理事業」「505.三十年の隔絶」参照
☆仮設病院……「1287.医師団の派遣」「1288.吉凶表裏一体」参照
☆ネミュス解放軍の襲撃……検問所の破壊「895.逃げ惑う群衆」、全体「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照
☆自治区民は、当局の許可証なしではここを出られない……「0118.ひとりぼっち」参照
☆アルミ缶を鎔かして作った鍋など……素材「1440.電脳世界の縁」→鍋作りの案「1451.台所を作ろう」参照




