1804.扉が開く沼地
「縮蛙と濡首獣は、奥の囲いがある沼に居ますが、手前の養殖沼の中には異界の扉があるので、急に何か出て来るコトがあります」
「夜間など、警備員さんが不在の時は、どうするのですか?」
ラジオのおっちゃんジョールチが、所長の説明に不思議そうな顔をする。
「日中は、扉から漏れる魔力を行き渡らせる為に敢えて開けてありますが、夕方には【閂の石盤】を沈めて遮断します」
通路に敷き詰められた石畳は、よく見る呪印もあれば、見たコトがないものもある。呪文もびっしりだが、モーフには全くわからない。
ラゾールニクが、タブレット端末で沼地を撮る。
澱んだ水の匂いが、虫除けの匂いを越えて鼻に届く。
沼の周り、鉄パイプを組んだ柵の外には、細長い葉が生い茂り、茶色くてふわふわの何かが付いた細い棒が突き出る。
所々草が刈り取られ、沼の表面はよく見えたが、濁った緑や薄茶色で、水中の様子はちっとも見えない。
この辺りの沼は、ひとつがせいぜいワゴン車くらいで、大きいものでも移動放送局のトラックより小さかった。
「こっちの沼、ヌシフェラないんですね」
小学生の一人がちょっと残念そうに見回す。
……そう言や、それも見るんだった。
どうやら、この細い葉ではないらしい。
「ヌシフェラがあると、生き物は快適だけど、作業し難いからね」
「俺らは去年、遠足で見たから別にいいんですけど、放送局の人は、見たコトないって言うから」
小学生のヌートが、ラジオのおっちゃんをチラチラ見て言う。
「それはまた今度、お隣のネルンボ農園の人にでも頼まないと、難しいな」
「今日は日曜ですし、ここの見学だけで一日終わりそうですから」
所長が当たり前のコトを言って苦笑すると、ラジオのおっちゃんはにっこり笑って話を流した。
「じゃあ、このふわふわの奴、何スか?」
「ん? これかい? これも薬草の一種だけど、ウチでは水質管理に使うから、出荷しないで置いてるんだ」
「これは何の薬になるんですか?」
ラゾールニクが、薬草を撮ってモーフの質問に便乗した。
「花粉が色々な魔法薬の素材になります。火傷や止血用の軟膏、膀胱炎用の内服薬が多いですね。【思考する梟】学派の術で、獣脂やアルコールと結合させて作るそうですよ」
モーフはこっそり薬師のねーちゃんを見た。
アマナたちと一緒にふわふわの奴の前に立って、「猫の尻尾みたいにふわふわなのねぇ」などと、何も知らないフリをする。
ねーちゃんの横へ行くと、木箱くらいの四角い石があった。てっぺんから鎖が出て、横に立て掛けられた板状の石に繋がる。
モーフの視線に気付いた小学生が指差して聞いた。
「所長さん、これがさっき言ってたナントカの石盤ですか?」
「そうだよ。【閂の石盤】。ここに嵌め込んである【魔力の水晶】に魔力を充填してから、呪文を唱えて沈めれば、沼に開いた異界への扉を閉じられるんだ」
「閉じられるのは、ずっとじゃないからね。【水晶】の魔力がある間だけよ」
ヌートの母ちゃんがいうと、小学生たちは薄気味悪そうに沼を見た。
ピナの妹が、怯えた目で沼をチラ見して警備員のおばちゃんに聞く。
「ずっと閉じる方法ってないんですか?」
「あるよ。【渡る雁金】学派の【封鎖】の術なら、きっちり閉じられるけど、難しいからプロじゃないと無理よ」
みんなが微妙な顔になる。
「で、蟹はどこに居るんだ?」
少し重くなりかけた空気をメドヴェージのおっさんが変えた。
「多刺蟹は、餌を食べる時以外、沼の底、泥の中に居るんですよ」
所長がいそいそ呪文を唱え、沼の水を起ち上げた。
巻き上がった灰色っぽい泥が選り分けられて沼へ戻り、だんだん水がキレイになる。水の濁りはなくなったが、泥と同じ色の塊が数え切れないくらい漂って、遠目には沼と同じ色に見えた。
所長は、作業服のポケットから手袋を引っ張り出した。手袋をつけた手を突っ込んで、泥色の何かを掴み出す。
「これが多刺蟹だよ」
「危ないから、防護手袋なしで触っちゃダメよ」
ヌートの母ちゃんが警備員として、顔を近付けた子供らに注意する。
モーフは、出し掛けた手を引っ込めて背中に回した。
カニとやらは、足がわしゃわしゃいっぱいあって、何となく虫っぽい気がした。
所長はカニの鋏とは反対側の部分を持つが、胴体には長さがまちまちの棘がびっしり生え、ヌートの母ちゃんの言う通り、素手で触ったら怪我をするだろう。
鋏は金属ではなく、身体と同じ色だ。
所長に反撃する気なのか、鋏と足をしゃかしゃか動かす。
「この棘だらけの部分が甲羅。これを魔法で加工して糸にします」
ラゾールニクがタブレット端末で色々な角度から撮りまくり、ラジオのおっちゃんは真剣な顔で手帳にメモする。
漁師の爺さんが、カニをしげしげ見て言った。
「ゼルノー市付近の水域で獲れるのとは、かなり様子が違いますね」
「えぇ。これは淡水性ですし、魔力を含む餌をたっぷり与えて育てていますからね。蓄えた魔力の量によって、棘の数と長さが変わるんです。そちらの蟹はどんなものですか?」
「ラキュス湖の底に住む種類です。甲羅がすべすべで、全体に丸みを帯びた形ですよ。雑食ですが、毒のある微生物を食べると身に毒素が蓄積するので、普通は食用にしません」
「えぇー……」
「食べられない蟹って居るんだ」
子供らが、漁師の爺さんにがっかりした顔を向ける。
「わざわざ毒消しを用意して食べる物好きな人も居るけど、俺は万一があるといけないから、網に掛かってもすぐ逃がしてたよ」
漁師の爺さんは、どことなく淋しげに見えた。
所長がカニを水に戻して、別のを掴み出す。
「この大きさになれば、そろそろ出荷です」
所長はカニの下を両手で掴んで、みんなに鋏を向けた。
二匹目のカニは、甲羅が俎板程もあり、棘はどれも新品の鉛筆みたいな長さと太さだ。踏んだら、足の甲から飛び出そうなくらい鋭い。
「食べると美味しいけど、人間の指くらい簡単に切り落とすから、生きてる内は触らないようにね」
子供らが顔を引き攣らせて、一斉に退がる。
カニと水を沼へ戻し、次の区画へ移動した。
☆ゼルノー市付近の水域で獲れるの……「1760.沼沢地の植物」参照




