1803.沼地の生き物
緑髪の所長が門の脇に立ち、低い漆喰の塀を示した。
「まず、この防壁ですが、これは外部の魔物や魔獣を防ぐだけでなく、沼の扉から涌くモノを外へ出さない為の物でもあります」
「えッ? 沼って魔獣出ンの?」
モーフは肝を潰した。
……やっぱ、カニって奴は魔獣なんじゃねぇか?
「蟹や従業員が襲われないように私たちが雇われてるの」
ヌートの母ちゃんがにっこり笑う。
「作業用の通路は【結界】と【魔除け】の敷石を設置しておりますので、くれぐれも順路を外れませんよう、ご注意下さい」
「どうして異界の扉を閉じないんですか?」
小学生の一人から質問が飛んだ。
……そんなコト、できンのか。
モーフは、当然のコトを何故しないのか、と言いたげな口振りに驚いた。
所長が半笑いで応える。
「それは、これから実際に見て説明するからね」
「えへへ」
質問した小学生が照れ笑いを浮かべ、他の小学生が軽く小突く。
一行は、所長を先頭に門を潜り、門の脇にある建物に案内された。
レサルーブの森にある製薬会社の研究所に似た雰囲気だ。玄関を入ってすぐの広い部屋は会議室で、壁に養殖場の大きな地図が貼ってある。
敷地内には、不規則な形の小さな水場が幾つも散らばり、細い通路がそれらを繋ぐ。水場にはそれぞれ何か書いてあるが、モーフの知らない単語ばかりだ。
奥には更に塀で囲まれた区画があって、その門の前にも赤で何か書いてあるが、これも読めない。
モーフが読み終えた小学校の教科書程度の知識では、養殖場にはまるで歯が立たないと思い知らされた。
現役の小学生六人は、緑の瞳を好奇心で輝かせ、所長の説明を待つ。
所長は、門に近い区画を順番に指差して言った。
「このアガロート養殖場では、水棲生物を養殖しています。多刺蟹と鯰、食用蛙は丸ごと出荷し、濡首獣はここで捌いて、血液だけ先に年間契約した工場へ出荷します。他に餌用の生き物も養殖しています」
「濡首獣は水に棲む魔獣で、頭と胴体、尻尾は狐に似ていますが、手足は鰭で、背鰭もあります」
ヌートの母ちゃんが、赤で何か書いてある囲われた沼を指差し、すらすら説明した。
所長が続ける。
「血液にアルコールが含まれ、ここで血抜きして町工場に出荷します。そこで成分を分離し、アルコールはカンフォラの処理工場へ送られます」
「血液の他はどうするんですか?」
魔法使いの工員クルィーロが聞くと、所長は緑髪の頭に作業帽を被って言った。
「肉は食べやすい大きさに切って、ある程度成長した多刺蟹に与えます。骨と毛皮は魔道具の素材として、卸売市場に出荷します」
「多刺蟹って魔獣も食べるんですか。この世の生き物ですよね?」
工員の兄貴がドン引きした顔で聞くと、所長は待ってましたとばかりの笑みを浮かべた。
「そうです。この世の生き物ですが、甲羅に魔力を蓄積する性質があります」
見学者たちから驚きの声が上がる。
所長はみんなが静かになるのを待って続けた。
「水揚げした多刺蟹は、ここで冷凍して年間契約した町工場へ出荷します。工場で身と甲羅に分け、身はそこから食品加工場、甲羅は紡績工場へ送られます」
「その工場って、多刺蟹をバラすの専門なんですね」
「そうです。棘が鋭いですし、蓄えた魔力が多ければ多い程、甲羅が硬くなるので、捌くには特殊な技術が必要なんです」
みんなから感心の溜め息が漏れる。
「糸に関しては以前、私も少し耳にしました。確か、白衣用の刺繍糸ですよね」
「流石ジョールチさん。よくご存知で」
所長が顔を綻ばせて説明を続ける。
多刺蟹の甲羅は魔獣など、魔力を持つ肉を与えると、魔力を蓄積する。
染料が染み込まず、白糸にしかならないが、魔力の循環効率がいい為、医療用や調理用の白衣、消防士用の耐熱服の刺繍に使われる。
多刺蟹の糸では、同じ呪文と呪印を施しても、火の雄牛由来の染料で染めた糸を使った【鎧】並の防御力にはならないが、それらの職業の一般的な使用には充分耐えられる服ができる。
モーフは、難民キャンプの支援に行った市民病院のセンセイを思い出した。
あの緑髪の呪医がずっと白衣なのは、丁度いい服が手に入らないからだと思ったが、そこそこの防禦力があるからだと考え直した。
このご時勢、何があるかわからない。
身を守る力は大きい方がいいだろう。
「多刺蟹が小さい内は、矢武蚊のボウフラや縮蛙のオタマジャクシを乾燥させ、すり潰した配合飼料を与えます」
「えッ? カニってあのヤベぇ蚊、食うの?」
モーフはマチャジーナ市に来てから驚いてばかりだ。
「危険な蚊を有効活用する昔の人の知恵だよ。何かにくっついて街の中へ入ってしまったモノは、殺虫剤でやっつけるから餌にはできないけどね」
ラゾールニクが、タブレット端末で地図を撮り終え、質問する。
「縮蛙って確か、毒のある魔獣ですよね? 食用の蟹に毒って、大丈夫なんですか?」
「縮蛙は後ろ足が生える頃から、毒腺が発達して牙も生え始めますが、足が生える前は無毒なんですよ」
「へぇー。オタマジャクシは毒ないんだ。知らなかった」
いいながら頻りに端末をつつく。
「縮蛙の餌も、矢武蚊とそのボウフラです。そうやって餌で魔力を濃縮してゆくんです」
「矢武蚊の成虫は、血が餌ですよね?」
「えぇ。それは濡首獣の血を与えています。【結界】の中で他にあたたかい血が流れる生き物が居なければ、必然的にそちらを狙いますからね」
「濡首獣は水に潜って防いだりしないんですか?」
「アレも、眠る時は陸地に上がりますので」
「上手く回るように組んであるんですねぇ」
次々質問したラゾールニクが感心して何度も頷く。
「先人の知恵に胡坐をかかず、日々改良を重ねております。では、実際に沼へご案内します」
所長はすらすら答え、建物を出た。
☆レサルーブの森にある製薬会社の研究所……「0193.森の薬草採り」~「0195.研究所の二人」参照
☆火の雄牛由来の染料で染めた糸を使った【鎧】並の防御力……「479.千年茸の価値」参照
☆あの緑髪の呪医がずっと白衣……そこそこの防禦「550.山道の出会い」参照
☆矢武蚊/あのヤベぇ蚊……「1762.なり得るもの」参照




