1801.養殖沼の見学
「おはようございまーす!」
日曜の朝食後、例の小学生は約束の時間きっちりに来た。
公園で知り合った男子小学生だけでなく、オリョールたちと似た制服のおばさんも、マチャジーナ市役所の駐車場に姿を見せた。
……このおばちゃんが警備員?
面食らった少年兵モーフを他所に大人たちが挨拶を交わす。
「本日はよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。ウチのヌートに他所の街のお話をたくさんして下さって有難うございます。晩ごはんの時にいつも、今日はこんな話を聞いたって、嬉しそうに話すんですよ」
「か、母さんっ」
小学生のヌートが頬を染めて母を肘で小突く。
「ジョールチさんたちが取材に来られると知って、ウチの所長が張り切って、今日は自分で案内するそうです。みなさんは、私が必ずお守りしますので、見学の順路を守ってゆっくりお楽しみ下さいね」
市役所の向かいの筋で、マイクロバスが待つ。あの時、一緒に行きたいと言った小学生五人が車窓から嬉しそうに手を振った。
「現地まで、あのマイクロバスでお送りします」
「俺、バス乗んの初めてなんだ」
ヌートは緑の瞳を輝かせたが、急に笑顔が凋んだ。
視線の先で、アマナが工員の兄貴にしがみついて固まり、ピナの妹も顔を強張らせてアマナにくっつく。薬師のねーちゃんも、心なしか顔色が悪い。
見送りに来たピナと兄貴も心配そうだ。
魔法使いの工員クルィーロが、小さく手を挙げて説明する。
「俺たち、バスで避難する途中で空襲に遭って、俺たちは助かったんですけど、無理だった人も割と……その……」
アマナの父ちゃんが娘の手を握り、ピナが妹を抱き寄せる。
モーフは何もできないどころか、言われるまでカケラも思い出さなかった自分が情けなくなった。
「じゃあよ、俺がワゴン転がすから、そっちイケるモンはそっちで。なっ」
メドヴェージのおっさんが言うと、ヌートの母ちゃんがホッとした顔で、バスでも平気な奴を誘導した。
FMクレーヴェルのワゴン車には、薬師のねーちゃん、アマナ、ピナの妹が乗って、メドヴェージのおっさんが運転席に座る。
モーフは迷ったが、ラジオのおっちゃん、漁師の爺さん、工員の兄貴、ラゾールニクと一緒にバスで行くことにした。
ズボンの尻ポケットから小瓶を出して、ふかふかの椅子に座る。虫除けはさっきたっぷり振り掛けられたが、力なき民は一人一本ずつ持たされた。
マイクロバスのエンジンが掛かり、ピナたちが市役所の前で手を振る。
一緒に行けないのは残念だが、沼がどんなところだったか、後でピナにたくさん話そうと気持ちを切替え、前を向いた。
マイクロバスの運転手は、警備員とは別の制服を着たおっさんだ。ラジオのおっちゃんが挨拶したら、びっくりしてしどろもどろに応えた。
みんなが座ったのを確認し、マイクロバスがゆっくり動きだす。
ヌートの母ちゃんが、一番前の席で身を捻ってみんなに言った。
「養殖沼は、底が泥でぬるぬるしてるから、落ちたら自力で出られないの。【魔除け】の石畳がある所だけ歩いて、柵から身を乗り出さない。いいね? 見学のお約束」
小学生六人が元気よく返事する。
モーフは念の為、聞いてみた。
「それでも、もし落ちたら、どうなんの?」
「私か所長が気付いたら【操水】で助けるけど、蟹の沼だったら鋏で挟まれるかもね。あいつら肉食だから」
「えぇッ?」
「そんなの、落ちなきゃいいんだよ。柵とかあるっつってるし」
ラゾールニクが軽いノリで言う。
……こちとら魔法使えねぇんだっての。
モーフは、自分が水に浸かったコトがないのに気付いた。
わざわざ軍隊上がりの警備員が湖の民の子供らにまで警告するくらいだ。人肉を鋏で切って食うなどと、沼の蟹はよっぽど手強い生き物なのだろう。
マイクロバスが大きい道路を北へ曲がってしばらく行くと、小さな町工場が並ぶ通りに入った。
「この辺の工場では、養殖した多刺蟹の甲羅から糸を紡いでいます」
「コーラ……で、糸?」
ヌートの母ちゃんの説明は、ワケがわからない。だが、ずっと北のヤーブラカ市では、家みたいに大きい蜘蛛から糸を採って、ジャーニトルの警備会社への支払いに充てたと聞いた。
蟹とやらがどんな生き物か、ますます想像もつかなくなったが、そんなコトもあるだろうと考え直す。
「他にも、カンフォラやヌシフェラの加工場がたくさんあります。中間素材を作る専門の工場や、虫除けとか軟膏とか、作る物の最終工程毎に別の工場で作業してるんです」
「へぇー。じゃあ、この辺一帯の町工場、まとめて沼地産業のコンビナートなんだ?」
ラゾールニクがヌートの母ちゃんの説明に感心したが、モーフには諜報員の兄貴の話が全くわからない。この情報ゲリラは途方もない勉強家らしい。
「そうですね。この辺りは、北の沼と一体になった複合的な工業地帯です。工程の大部分が魔法による処理なので、科学文明国の工業地帯とはまた別ですが、産業構造としては、そうなりますね」
ラジオのおっちゃんは、難しい話を熱心にメモする。
マイクロバスが、マチャジーナ市の北門を出た。
街のすぐ傍は、なんてコトない麦畑だ。まだ青い穂が風にそよぎ、一斉にお辞儀する。
野菜畑を過ぎ、牛や羊が草を食む牧場を抜け、低い塀に囲まれた場所に着いた。
マイクロバスが塀の傍の砂利が敷かれた駐車場に駐車し、FMクレーヴェルのワゴン車も隣に駐車する。
ヌートの母ちゃんが、さっきの警告を繰り返すと、アマナたちは真剣な顔で頷いた。
☆例の小学生……「1760.沼沢地の植物」「1761.沼地の危険性」参照
☆バスで避難する途中で空襲……「0056.最終バスの客」~「0058.敵と味方の塊」参照
☆家みたいに大きい蜘蛛から糸を採って、ジャーニトルの警備会社への支払い……「0936.報酬の穴埋め」参照




