1796.生存の選択肢
「ごめんなさいね。ちょっとお茶淹れさせてね」
クロエーニィエ店長が、溜め息混じりに言って店の奥へ引っ込んだ。
何日も入浴できないのは、ランテルナ島には、魔法を使えない者用の「風呂」がないからだ。それに加え、多くの者は着替えすら持ち出せず、着の身着のままで島へ追い出されたのだろう。
どことなく、空襲で焼け出されたネモラリス人と重なる。
失業者が急増すれば、見込みのありそうな若者や、身軽な者から順に採用が決まるのが世の常だ。先程はあぁ言ったが、仮に先程の男性が幾許かの術を使えるようになったところで、幼い息子の預け先がみつからない限り、就労は難しいだろう。
……一人や二人の臭いじゃなかった。あんな人が他にも大勢居るの?
あの饐えた臭いの原因がわかり、薬師アウェッラーナは、暗い予感と疑問が同時に首をもたげた。何故、アーテル本土で生まれ育った無自覚な力なき民が、ランテルナ島の街に急増したのか。
独立後のアーテル共和国本土領でみつかる力ある民は、内乱のどさくさで魔力の有無を調べられなかった者、我が子の魔力を知りつつ親が本人にも隠して手元で育てた者、内乱後に産まれた隔世遺伝の者だ。
香草茶の清涼な芳香で、父子の残り香が紛れた。
今はまだ初夏だが、この先も入浴できなければ、もっと大変な状態になる。
「さ、どうぞ」
クロエーニィエ店長に勧められ、薬師アウェッラーナは湯気の立つ茶器を鼻先に近付けた。清々しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、気持ちを鎮める。
「最近、あんな感じの人、急に増えたのよ」
「さっきの奴、星の標にもアタリが出たっつってたな」
「星の標も、ランテルナ島に来たの?」
店長が言うと、メドヴェージとエランティスが薄気味悪そうに店内を見回した。
郭公の巣に居る客は、アウェッラーナ、エランティス、メドヴェージだけだ。魔力があるとわかっても、星の標が魔法の道具屋へ来るとは思えない。
「島へ放り出された連中、財布が空ンなったら」
「食料品店は万引きが増えたって言ってるわね」
何らかの伝手があるか、余程の幸運に恵まれない限り、ロークと元神学生スキーヌムのようにはゆかないのだ。
「不潔な状態が続くと、病気になるだけじゃなくて、その人から雑妖が涌いたりするのよね」
「えぇッ? 洗ってあげないんですか?」
エランティスが店長を見上げる。
移動放送局では、魔法使いたちが交替で、力なき民の洗濯と入浴を引受ける。空襲の焼跡に居た頃からずっとそうだ。
「宿屋はずっと前から、力なき民のお客さん向けにやってるわよ」
「えっ?」
「ちゃんとした料金表もあるし」
「あったっけ?」
店長に言われ、力なき民の二人が顔を見合わせる。
「必要なければ、視界に入っても見落とすわよ」
「じゃあ、風呂代ケチったか、そのカネもねぇのか」
エランティスが、地元民のクロエーニィエ店長を不安げに見上げる。
「ここって、警察ないんですよね?」
「本土にあるようなのは、ないわね」
「万引きの犯人が捕まったら、どうなるんですか?」
「捕まえた人によるわね」
一言で、エランティスの顔から血の気が引く。
「魔物を呼び寄せる扉になられても困るから、命までは取られないわ」
店長はにっこり微笑むが、安心できる要素は少ない。
「アーテルが独立してからずっと、魔力があるのがわかっても、火炙りにならなかった人たちが、この島へ来てるんですよね?」
薬師アウェッラーナは、ふと気になって聞いてみた。クロエーニィエ店長が目顔で促す。
「小さい子も捨てられたって、ロークさんの報告書で読んだんですけど、今までどうしてたんですか?」
「小さいコの方が大事にされるわ」
「子のない夫婦が養子にすんのか」
メドヴェージが頬を緩める。
「病院や薬局で引取って呪医として育てるのよ」
「えッ?」
「悪い虫が付かないように気を付けるし、じっくりお勉強できるように環境も整えられてるわ。街のみんなで育てる感じね」
「あッ……あぁ、そう言う……需要」
結婚して自分の家庭を持つ道は閉ざされるが、劣悪な環境で罪を犯しながらその日暮らしの命を引き延ばすより、マシかもしれない。
「じゃあ、あの子……」
「お父さんが一緒だし、彼は息子を手放したくなさそうよ?」
「今、無理に引き離したら、両方から一生、恨まれそうだな」
メドヴェージが苦い顔で頷いた。
喩え貧しくとも、自力で口に糊する道があるならば、まずは家族二人で助け合って何とかしたいと思うのが人情だろう。
「その内、誰かが教えるでしょうけど、それは今じゃないわね」
三人は、蔓草細工の帽子三個を【耐衝撃】の【護りのリボン】一本と交換してもらい、郭公の巣を出た。
獅子屋へ行く道々、何日も入浴できなかった体臭が鼻先を掠め、その度に息を止めた。
定食屋に姿を見せた昼休みの一番手は、元神学生のスキーヌムだ。
「よかったら、兄ちゃんも一緒に食わねぇか?」
「あ、はい! 有難うございます。よろしくお願いします」
四人掛けの卓で、スキーヌムはエランティスの正面に座り、彼女の顔を穴が開きそうなくらい見詰める。
「おいおい、いくら別嬪さんだからって、そんなジロジロ見るもんじゃねぇぞ」
「え? あ、あぁあッ! すみません! つい……ピナティフィダさんの背が低くなったのかと思いまして」
「ンなわきゃねぇだろ」
「私、妹のエランティスです」
アウェッラーナはいたたまれなくなり、横を向いて溜め息を吐いた。
なるべくゆっくり食べたが、あまり長居はできない。スキーヌムと連れ立って呪符屋へ行き、軽く挨拶だけしてマチャジーナ市へ戻った。
☆ロークと元神学生スキーヌム……「841.あの島に渡る」~「847.引受けた依頼」参照
☆空襲の焼跡に居た頃……「0112.みんなで掃除」参照
☆宿屋はずっと前から、力なき民のお客さん向けにやってる……「845.思い出の手袋」参照
☆小さい子も捨てられたって、ロークさんの報告書……「753.生贄か英雄か」「795.謎の覆面作家」参照
☆呪医として育てる/悪い虫が付かないように気を付ける/結婚して自分の家庭を持つ道は閉ざされる……「0108.癒し手の資格」「264.理由を語る者」「631.刺さった小骨」「632.ベッドは一台」参照
☆ピナティフィダさんの背が低くなったのかと……ピナとは面識がある「1381.支援者に支援」~「1384.言えない仲間」参照




