1788.工作員の私見
〈何で引越さないんだ?〉
ギター奏者のアカウントも、SNSとニュースのコメント欄で疑問を呈した。それぞれに自称アーテル人が、気楽に引越せない事情をつらつら並べ、理解を乞う。
考えるまでもなく、可能ならばとっくに避難しただろう。
ラニスタ共和国政府は開戦以来、アーテル人の避難者を難民として受容れるとの声明は、一度も発表しなかった。
湖南地方には他にキルクルス教国がなく、湖東地方へ行くには、戦争の影響で飛行機の便が減った上、ディケア共和国も、まだ完全に安定したとは言い難い。
他の国々は、キルクルス教徒の増加に頭を悩ませる。ここでアーテル難民を受容れれば、宗教分布の均衡が崩れ、新たな内戦を誘発させかねない。
湖東地方には、アーテル共和国に支援を申し出る国がひとつもなかった。
〈何これ? 酷い……アーテルって呪われちゃったの?〉
料理のアカウントが、殊更に怖がってみせる。
ゲームプレイヤーのアカウントは、皮肉めいた言葉をSNSに投げた。
〈聖職者、手も足も出ないのな。やっぱ現実はゲームみたいにはいかねぇな。〉
〈おいおい……RPGじゃないんだから〉
〈でも、やっぱそうだよな。力なき聖者。まんまそうだもん。〉
〈そろそろ現実に戻って来いよ〉
〈キルクルス教のお祈りじゃ、心の平安と魂の救済以外、効果ないもんな〉
ぶら下がったコメントは、賛同と彼をバカにするものが半々だ。
もしかすると、今回は印象操作ではなく、彼ら自身の素直な感想かもしれない。
……それならそれで、バルバツム人が本当に湖南地方へ目を向けるようになったと言うことで、いいのか。
〈この聖別された武器って知ってる? 超見たい!〉
模型趣味のアカウントは、SNSとポータルサイト両方にコメントを残す。
SNSの投稿には、自分も見たいとのコメントが幾つもぶら下がった。
〈伝統的な武器って言うくらいだから、少なくとも戦車とかじゃないな〉
〈戦車って〉
〈聖典に載ってたら聖者様、未来に生き過ぎじゃね?〉
模型趣味のバルバツム人から冗談は飛ぶが、聖典に記された武器の実像は、誰も知らないらしい。
ポータルサイトの記事下コメントには、別の疑問を書込む。
〈アーテル軍って魔獣と戦えるイイ武器、普段から持ってないの?
今、神学生と星道の職人が作ってる最中って、泥縄過ぎない?〉
こちらは、諜報員のコメントのみの抜粋で、他の閲覧者の反応は不明だ。
……ファーキル君のことだ。あれば付け足しただろう。
コメント欄の一番上には、総コメント数の表示がある。
印刷時点での書込みは、五十二件。バルバツム連邦で耳目を集めた聖職者と有名な歌手の不倫騒動は、初報も続報もそれぞれ万単位のコメントが殺到した。
身近なスキャンダルと比べれば、辺境に位置するアーテル共和国の惨状など、バルバツム人にとっては、視界にも入らない瑣末事なのだろう。
模型趣味のアカウントを運用するのは、ネモラリス陸軍が十数年前にバルバツム連邦へ植付けた間諜だ。
趣味を通じて人脈を広げ、キルクルス教系慈善団体「星界の使者」内部にまで入り込んだ。幹部ではないが、リゴル代表と直接話せる立場に在る。
この件に関して、星界の使者のSNS投稿も印刷してあった。
〈アーテルの人々が、邪悪な魔獣から身を守る力になりたいと考えております。
具体的にどのような支援が必要か、情報をお寄せ下さい。〉
流石のリゴル代表も、魔獣退治に関しては一方的な送りつけを断念したらしい。
本文は共通語だが、投稿の添付画像は、湖南語で同じ文章を入力した画面の写しだ。共通語圏に在留するアーテル人や、湖南語話者に向けた呼掛けなのだろう。
印刷日は投稿日の翌日で、拡散数は三万件近くに上るが、回答は十件足らずしかない。
〈土魚の拡散で、農作業ができなくなった可能性があります。〉
〈学生さんをバルバツムに留学させてあげるのはどうでしょう?〉
〈学校が全部使えなくなったって書いてありました。
小中学生も、隣のラニスタとか安全な所に避難させて欲しいです。〉
単に同情を示しただけのものを省けば、使えそうな案は三件しか残らなかった。
共通語圏で暮らす身内が外国へ呼びよせようにも、通信途絶で連絡もままならない。
航空券を手配して郵送しても、ルフス神学校周辺など郵便配達すらできなくなった地域も出始めた。自宅に配達できたとしても、土魚の出現で避難した家は毎日、避難所から確認しに帰れるとは限らず、手紙の受取りが遅れ、飛行機の便を逃す可能性が高い。
郵便受けの設置場所によっては、そもそも取りに行けないだろう。
伝手も資金もない人々は、どの途、アーテル領に留まらざるを得なかった。
……ネモラリスとの戦争か、魔獣との戦争か、わからなくなってきたな。
ラクエウス議員は窓の外へ目を遣った。
純白の壁に囲まれたガラスの向こうには、アミトスチグマ王国様式の白い街並が広がる。ラキュス湖に面したゆるやかな斜面に沿って、白い家々と樫や秦皮の新緑が連なる。
花の季節は終わったが、初夏の日差しを受けた葉が風に翻り、夏の都のそこかしこで光と影が躍った。
ロークたちの調査によると、土魚を大量に召喚したのは、元神学生のヂオリートだ。彼は、様々な事情からキルクルス教団とアーテル社会に深い憎悪を抱く。
アーテル社会の弱点を熟知し、インターネットの扱いも心得る彼は、ネモラリス憂撃隊に加わった。恐らく、老婦人シルヴァの手引きだ。
指導者の警備員オリョールがタブレット端末を使いこなすのは、ヂオリートの入れ知恵によるものと看做していいだろう。
……リゴル代表が食料などを支援したところで、焼け石に水だ。
食い詰めた人々の一時的な助けにはなるが、根本的な原因を解決しない限り、状況は悪化する一方だ。
ラクエウス議員には、陸軍がバルバツム連邦に放った密偵が、何故、こんな書込みをしたか、全く意図を読めなかった。
☆ギター奏者のアカウント/料理のアカウント/ゲームプレイヤーのアカウント……「1376.特定する作業」「1377.電脳界の傭兵」参照
☆可能ならばとっくに避難……「0265.伝えない政策」「1637.気になる隣国」参照
☆他の国々は、キルクルス教徒の増加に頭を悩ませる……「1086.政治の一手段」~「1088.短絡的皮算用」参照
☆模型趣味のアカウント……「1479.間諜の植付け」「1480.寄付品の理由」参照
☆キルクルス教系慈善団体「星界の使者」……「1321.前後での変化」「1322.若者への浸透」参照
☆土魚を大量に召喚したのは、元神学生のヂオリート……「1698.真夜中の混乱」~「1700.学校が終わる」参照
☆指導者の警備員オリョールがタブレット端末を使いこなす……「1770.駆除屋の正体」「1771.真面目に仕事」「1775.星の標の活動」参照




