0183.ただ真実の為
ファーキルは、たった一人で薄暗いトンネルを歩いても、不安はなかった。
ここは魔法で守られる。
魔物に襲われる心配も、崩れる心配もない。分岐もなく、迷う心配もなかった。
出口に近付くにつれ、外の光が大きくなる。
その光を見ながら、取りとめもなく考えた。
アーテル共和国でも、世俗の警察や裁判所、刑務所は、きちんと犯罪者を捕えて処罰する。
だが、キルクルス教原理主義の人権団体は、被害者に泣き寝入りを強要した。
「ちょっとした過ちを犯しただけだから」
「誰でも過ちを犯すから、他者を責めてはならない」
「たかがそんなことくらいで警察に言うなんて、心が狭い」
身内や近所に原理主義者が居れば、被害者を一方的に責め、事件の通報や被害届を妨げる。
どんな凶悪犯や累犯もひとまとめに「魔力に穢れぬ無垢なる魂を持つ清き民」として、世俗の司法から野放しにすることを求め、各地で活動を続ける。
キルクルス教団体の幾つかは一応、教義に沿った更生施設を運営するが、効果の程は定かでない。
ネットやテレビのニュースでは連日、殺人や強盗などの凶悪事件が報じられる。
アルトン・ガザ大陸には、聖者キルクルスの聖地があって信者が多い。アーテルより人権擁護が盛んで、死刑制度のない国も多い。
自らの過ちに気付き、悔い改める日が来ると信じ、彼らを決して見捨てない。
人々が許し合う寛容な社会を築くことが、各地の原理主義団体の理想であり、目標でもある。
ファーキルは、それらの団体が「再犯事件の被害者の人権」についてどんな考えを持つかわからなかった。幾ら調べても、キルクルス教系人権団体のサイトには、キレイごとが並ぶだけだ。
犯罪被害者の支援団体もあるが、主に世俗主義のボランティアや、別の宗教団体が運営する。
悔い改める前に重ねた罪で苦しめられる人々の人権は、犯罪者が過ちに気付く為の踏み台として、踏み躙られてもいいのか。
犯罪者の更生を信じ、待つ為なら、善良な人の生命や財産、様々な権利がどれだけ奪われ、蔑ろにされても、構わないと言うのか。
「誰でも過ちを犯すから、他者を責めてはならない」
ファーキルは、そんな言葉を見聞きする度に虫唾が走った。
誰もが盗みや殺人を犯す訳ではない。
そんなことをするのは、ほんの一握りの悪人だけだ。
大抵の人間は、相手の痛みを想像し、他者を殴ることさえ躊躇する。
悪事に手を染めることなく生涯を終える者が圧倒的多数を占めるからこそ、法の支配が機能し、社会の秩序を維持できるのだ。
ファーキルは、いじめっ子たちが教室でニヤニヤ笑う顔を思い出して、吐き気がした。
他者が傷付く姿を見て喜ぶ者が、果たして「魔力に穢れぬ無垢なる魂を持つ清き民」なのか。
少なくともファーキルには、いじめっ子たちや、隣のお婆さんを入院させたひったくり犯に許しを与えるのは無理だ。
拳を握って隧道を見上げた。呪文と呪印が刻まれた石材が天井を支える。
外から吹き込む風は冷たかった。
呪符屋と運び屋。
湖の民二人は魔法使いだが、初対面のファーキルの身を案じてくれた。
ファーキルが払ったのは、片道ギリギリの額しかない。お釣は小銭だと思った。
店長は「釣銭」名目で高価な売り物をくれた。
ファーキルが気を遣わないよう、そう言ってくれたのだ。
運び屋の女性も【水晶】に魔力を補充してくれた。
どちらも商売抜きの厚意でしてくれたのだ。
少しでも、ファーキルが生き延びる可能性を上げる為に。それどころか、忠告して引き留めようとさえした。
二人の商売抜きの親切は、キルクルス教圏では、彼らが魔法使いだと言うだけで全否定される。
信仰の名の許で、湖の民や力ある陸の民への人種差別が公然と行われるのだ。
魔法使いが全て悪人なら、魔法使いが多数派を占めるこのラキュス地方……いや、このチヌカルクル・ノチウ大陸の殆どの国は、無法地帯と言うことになる。
実際には、各国とも法の秩序が行き渡る。
魔物が多い地域は寧ろ、化生から身を守る為、人間同士の諍いは少ないとの説もある。
ラキュス湖北地方の七王国は国連に加盟しない。だが、歴史上一度も、その軍が周辺の両輪の国や、科学文明国に向けられた事実はない。
この湖南地方では、ラキュス・ラクリマリス共和国が人間同士の諍いを五十年も続けた末、国を分かつことで妥協した。
歴史の教科書には、半世紀の内乱当時、力なき民のキルクルス教徒は、魔法使いから一方的に蹂躙されたと書いてあった。
ファーキルは、教会や信者団体の大人の言うことと、社会の実像とのズレにずっと疑問を抱き続けた。
違法な手段でネット検閲を突破し、周辺国のサイトにアクセスした。
そこでは、キルクルス教徒による殺戮の様子が、世界中に向けて開示される。
化学兵器の使用や空襲による無差別攻撃など、教科書には載らない写真や映像も添えてあった。
周辺国の歴史では、半世紀の内乱が「喧嘩両成敗」として語られるのだ。
それが事実かどうか、確認できないのは承知している。
その気になれば、画像や映像は幾らでも捏造できる。
このまま大人が敷いたレールに乗って、進学、就職し、嘘で塗り固められた社会に同化したくなかった。
……そんな人生で長生きするくらいなら、真実を確める為に命を懸けてやる。
この願いが叶った後なら、この命も惜しくないとさえ思った。
隧道には、吹き抜ける風の他、何者も通らない。
冷たい風がファーキルの身体をすり抜け、ネーニア島南部の荒れ地へ向かう。
風は、微かに焦げた匂いがした。
出口が近付き、光が視界いっぱいに満ちる。
なだらかな坂の下には、見渡す限り廃墟が広がっていた。




