0181.調査団の派遣◇
リストヴァー自治区の被害調査の実施が決定した。
ラクエウス議員の懸命なロビー活動と、議場での血を吐くような呼び掛けがようやく実ったのだ。
世論には、自治区民とランテルナ島民を交換すればいいと言う声も多く、これにも後押しされた。
開戦とそれに先んじた星の道義勇軍の武装蜂起から、既に一カ月近く経過した。
ラクエウス議員は調査団長に任命されたが、今度は自治区までの交通手段確保が課題になった。
敬虔なキルクルス教徒のラクエウスにとって、魔道機船に乗ることは堪え難い屈辱だ。そんな穢れた船に乗るくらいなら泳いだ方がマシだとさえ思える。
自治区から首都クレーヴェルの国会へ赴く時は、ネーニア島北部のトポリ空港まで「普通の乗用車」で陸路、そこからは空路を使った。
だが、今は戦時だ。
しかも、敵となったアーテル共和国の主戦力は空軍。数少ない旅客機を飛ばすのは甚だ困難な状況だ。
「今はまぁこんな状況ですから、防空艦でグリャージ港に降りていただくのが、速く安全で確実です」
軍の責任者を同席させ、官房長官が言った。
そこから先は口に出さないが、老いぼれの我儘に付き合わされるのはまっぴらだと言外に滲ませる。
ラクエウス議員は首を横に振って反論した。
「ならば尚のこと、空から広範囲に状況を確認した方がよろしい。空席と貨物室に救援物資を積めば、手間と燃料も無駄になりますまい」
二人は渋面を作ったが、ラクエウスを支援するのは自治区のキルクルス教徒だけではない。
多神教のフラクシヌス教徒の中には、信仰の垣根を越え、少数弱者の支援に熱心な信者団体や人権団体が幾つもあった。
ラクエウス議員を無理矢理、魔法を動力とする防空艦に乗船させれば、それらの団体が黙っている筈がない。
「左様で。対応につきましては、改めて協議致します」
官房長官はそう告げて、一旦、説得を切り上げた。
結局、調査団が派遣されたのは、三月に入ってからだった。
その間、ラクエウス議員もただ暇を持て余して過ごした訳ではない。各業界団体を回り、救援物資を掻き集めに奔走した。
ネモラリス共和国は両輪の国だ。
魔術の業界団体だけでなく、科学の団体も勿論ある。
特に家電や自動車などのメーカーは、現地の情報を渇望した。リストヴァー自治区で製造される機械部品が必要だからだ。
一時的には輸入で凌げても、開戦直後から、ラクリマリス王国による湖上封鎖が続く。
航路の迂回で輸送費が嵩み、輸入品の価格が吊り上がった。
輸出も、輸送費を上乗せすれば、価格競争で負ける。大企業でも、利益を減らして吸収できる期間は長くない。
この状況が長引けば、真っ先に体力のない製造や小売りの中小企業が倒産してしまう。
戦争と物資不足と経済不安。
産業省や経済省には、連日のように業種組合や経済団体の陳情が押し寄せる。
国民の暮しにのしかかる影を少しでも払拭したいとの思いは、議会の多数派の予想を上回る強さだ。
ラクエウス団長が率いる調査団は、軍の輸送機で首都クレーヴェルを発った。
アーテルの攻撃はなく、ネーニア島の北東端に位置するトポリ空港に降り立つ。
トポリ空港から、自治区への中間地点にあるキパリース市まで物資と一般の調査員は、トラックで輸送する。
ラクエウス議員と保健省の役人、航空カメラマンは軍の輸送ヘリに乗り換え、一足先に東岸沿いを南下する。
キパリース市以南は、立入制限区域に指定され、避難所も開設されない。先に調査し、その状況によって輸送ルートを選定する予定だ。
カメラマンは自動車メーカーの団体が雇い、アミトスチグマ王国に本社を置く航空写真専門の測量会社から派遣された人物だ。
専用のカメラ三台を肩に掛け、大きなカメラバッグを抱える。無駄口を一切叩かず、既に輸送機の窓からも多数の写真を撮影した。
撮影機材は科学文明国の最新機種で、フィルムを現像することなく、カメラ本体についた小さな画面で写真を確認できる。
ネーニア島の岸に沿って発達した都市と中央部の原野が視界に広がる。
クブルム山脈から続く深い森と、幾つもの湖沼を抱える湿地帯は、人を寄せ付けない魔物と野生動物の楽園だ。
内陸の湖沼はいずれも淡水だが、その周辺に人間の集落はない。
僅かに、狩人や研究者の拠点はあるが、常駐の場所はなかった。
東岸の諸都市は、半世紀の内乱の痛手から復興半ばだ。
都市の規模が内乱以前より縮小し、都市間には荒野が横たわる。荒野を行く国道沿いに人家は見られない。
人の居ない土地には魔物が入り込む。【急降下する鷲】など魔物と戦う術を知らなければ、そんな土地には住めない。
それも、少人数では多勢に無勢。入植者は休みない戦いの末、撤退を余儀なくされることが多かった。
都市の……人間の領域を広げるには、まだまだ長い時間が必要だ。
軍の輸送ヘリは、ルート上の街に降り立ち、給油と情報収集を行う。政府が正式に派遣した被害状況の調査団には、続々と苦境を訴える声が寄せられた。
ネーニア島北東部の諸都市は、空襲の直接的な被害は軽微だ。
物資の欠乏と避難民の流入、病の流行と治安の悪化に苦しむ。
軍と警察が、治安維持と魔物の討伐にあたるが、瓦礫の撤去やアーテル・ラニスタ連合軍への防衛もあり、手は幾らあっても足りなかった。
幾つもの工場が、部品の欠品で休業に追い込まれた。
職にあぶれ、住む所を失った人々が巷に溢れる。
力ある民は、自力で湖水を塩抜きし、また、湖から魚などの食糧を得られる。ある程度は、魔物や雑妖から身を守れる分、それでもマシだった。
力なき民は、既に飢えや病で多数の死者を出していた。
病死とされる中には、魔物の犠牲者も含まれる。
まだ、この世に迷い出て日が浅く、肉体を得ていない魔物の襲撃は、病による衰弱と見分けがつかないことも多い。
「正式な検死ができる状況ではありませんので」
「今は正確な死因の調査より、人々の動揺を抑えなければ、更なる治安の悪化を招いてしまいます」
どこに降りても、地方都市の役人たちは疲れた声で異口同音に言う。
自治体の判断によって、魔物による捕食の可能性を捨てきれない事案も、公式発表では「病死」に数えられた。
調査団長のラクエウス議員は、道中で得た情報のコピーを速報として議会に送らせた。
「手段は問わん」
ラクエウス議員が送り出すと、保健省の事務官は安堵に頬を緩めて駆け出す。
役所の建物を出た瞬間、書類の封筒を抱えた姿が消えた。廊下を走りながら呪文を唱えたのだろう。
調査団長は、見なかったことにして原本を読み返し、深い溜め息を吐いた。
☆開戦直後からラクリマリス王国による湖上封鎖……「0127.朝のニュース」「0144.非番の一兵卒」「0161.議員と外交官」参照
★第九章 あらすじ
少年ファーキルは、祖国アーテルを捨て、真実を知る為の旅に出る。
レノたち十人は、放送局のトラックを得て移動を開始した。図書館で魔法を復習して河を越える。
ラクエウス議員が、ネーニア島のネモラリス共和国領南部へ被害状況の調査に向かった。
※ 登場人物紹介の一行目は呼称。
用語と地名は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。
【思考する梟】などの術の系統の説明は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。
★登場人物紹介
◆湖の民の薬師 アウェッラーナ 呼称は「榛」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
父と姉、兄、甥姪など、身内で支え合って暮らす。実家はネーニア島中部の国境付近の街、ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営む。
ゼルノー市ミエーチ区にあるアガート病院に勤務する薬師。
魔法使い。使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】
真名は「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」
◆パン屋のレノ 呼称は「馴鹿」の意。髪の色と足が速いことから。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。十九歳。濃い茶色の髪の青年。
ネーニア島のゼルノー市スカラー区にあるパン屋「椿屋」の長男。
両親と妹二人の五人家族。パン屋の修行中。
レノは、髪の色と足が速いことからついた呼称。「馴鹿」の意。
◆ピナティフィダ(愛称 ピナ) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。中学生。二年三組。濃い茶色の髪。
レノの妹、エランティスの姉。しっかりしたお姉さん。
◆エランティス(愛称 ティス) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。小学生。五年二組。濃い茶色の髪。
レノとピナティフィダの妹。アマナの同級生。大人しい性格。
◆工員 クルィーロ 呼称は「翼」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。工場勤務の青年。二十歳。金髪。
パン屋の息子レノの幼馴染で親友。ゼルノー市スカラー区在住。
両親と妹のアマナとの四人家族。隔世遺伝で、家族の中で一人だけ魔力がある。
魔法使いだが修行を怠り、使える術の系統は【霊性の鳩】が少しだけ。
機械に興味があるので、ゼルノー市グリャージ区のジョールトイ機械工業の音響機器工場に就職。
◆アマナ 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。クルィーロの妹。金髪。
小学生。五年二組。エランティスの同級生。ゼルノー市スカラー区在住。
◆少年 ローク 呼称は「角」の意。
力なき陸の民。商業高校の男子生徒。十七歳。ディアファネス家の一人息子。
ゼルノー市セリェブロー区在住。家族と相容れず、家出する。
祖父たち自治区外の隠れ教徒と、自治区の過激派が結託したテロ計画を知りながら、漫然と放置した。
保身に走り、後悔しがち。
◆お針子 アミエーラ 呼称は「宿り木」の意。
陸の民。キルクルス教徒。十九歳の女性。金髪。青い瞳。仕立屋のお針子。
工員の父親と二人暮らし。祖父母と母と弟妹は病死。弟妹はいずれも幼い頃に亡くなり、人数も憶えていない。泥棒が同情するレベルの赤貧。
魔力はあるが、魔法が使えない。
母方の祖母が力ある民。隔世遺伝で魔力を持つが、魔法を教わっておらず何もできない。
◆仕立屋の店長 クフシーンカ 呼称は「睡蓮」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。一人暮らしの老婆。気前がいい。
リストヴァー自治区の団地地区で、仕立屋を経営している。
アミエーラの祖母の親友。ずっとお互いに助け合ってきた。
◆フリザンテーマ 呼称は「菊」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。アミエーラの祖母。クフシーンカの幼馴染で親友。
夫は力なき陸の民でキルクルス教徒。内戦終了後はリストヴァー自治区に移住した。
自治区では、魔法使いであることを隠す為、知り合いの居ないバラック地帯で生活した。
◆カリンドゥラ
力ある陸の民。長命人種。
アミエーラの祖母フリザンテーマの姉。仕立屋の店長クフシーンカの幼馴染。
無事なら現在もネモラリス島に住んでいる筈。
◆少年兵 モーフ 呼称は「苔」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の少年兵。十五~十六歳くらい。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
アミエーラの近所のおばさんの息子。祖母と母、足が不自由な姉とモーフの四人家族。
父は、かなり前に工場の事故で亡くなった。
以前は工場などで下働きをしていた。自分の年齢さえはっきりしない。
貧しい暮らしに嫌気が差し、家出してキルクルス教徒の団体「星の道義勇軍」に入った。
◆隊長 ソルニャーク 呼称は「雑草」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍・第三小隊の隊長。モーフたちの上官。おっさん。
知識人。冷静な判断力を持つ。
キルクルス教徒だが、狂信はしない。自爆攻撃には否定的。
陸の民らしい大地と同じ色の髪に、彫の深い精悍な顔立ち。空を映す湖のような瞳は、強い意志と知性の光を宿す。
◆元トラック運転手 メドヴェージ 呼称は「熊」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一兵士。おっさん。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
以前はトラック運転手として、自治区と隣接するゼルノー市グリャージ区の工場を往復した。
仕事で重傷を負い、ゼルノー市ジェリェーゾ区にある中央市民病院への入院経験がある。
◆ルベル 呼称は「赤」の意。髪の色に由来。
力ある陸の民。男性。フラクシヌス教徒。兵学校を卒業して数年の若い兵。
ネモラリス政府軍の魔装兵。ネーニア治安部隊の隊員。末端の兵卒。
【飛翔する蜂角鷹】学派の術を修め、偵察などを主な任務とする戦闘員。
テロ鎮圧作戦中に戦争が始まり、急遽、水軍の守備隊に転属させられる。
軍用魔道機船に乗り組み、見張りとして空襲の警戒にあたる。
軍服は魔法の鎧。
実家は、ネモラリス島北東部の山中にあるアサエート村。アーテル共和国からは最も遠い。
◆ラクエウス議員 現在の呼称は「罠」の意。
力なき陸の民。敬虔なキルクルス教徒。老人。クフシーンカの弟。
ネモラリス共和国リストヴァー自治区出身の国会議員。無党派。自治区の発展の為、尽力する政治家。
◆ザトヴォール 呼称は「閂」の意
ラクリマリス人。力ある陸の民。男性。フフラクシヌス教徒の主神派。
外交官。駐ネモラリス共和国ラクリマリス王国大使。元貴族。
◆ファーキル 呼称は「松明」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。男子中学生。十五歳。
アーテル共和国北部、ヴィエートフィ大橋の袂にあるイグニカーンス市在住。
ぱっとしない外見で大人しく、学校ではいじめられる。
頭はそこそこいいが、親と同級生からは蔑ろにされる。
インターネットで国内外の情勢と魔術について知り、行動を起こす。
運び屋に代金を払い、単身、アーテル軍の空襲を受けたネーニア島に渡った。
◆呪符屋
店に名はなく、リンドウの看板が目印。
ランテルナ島の地下街チェルノクニージニクで店を構える呪符屋の店主。湖の民の男性。
初対面のファーキルの身を案じ、色々忠告してくれた。ぶっきらぼう。
◆運び屋
湖の民の女性。二十代半ばくらいに見えるが、長命人種なので実際にはかなりの高齢。
ランテルナ島の地下街にある呪符屋を拠点に活動する。
魔法使いだが、タブレット端末を使いこなすなど科学文明にも馴染む。




