1763.公園の勉強会
夜の間に虫除けの匂いが薄くなった。
「坊主、ちょっと待て」
モーフが朝一番のトイレに行こうと、トラックの荷台を降りかけたところで、葬儀屋のおっさんに肩を掴まれた。問答無用で、頭のてっぺんから爪先まで虫除けをたっぷり振り掛けられ、慌てて息を止める。
漏れそうな気がして、息を止めたまま、役所の駐車場から公園へ走った。
公園の空気に虫除けの匂いはなかったが、モーフが立ち止まると自分の身体からむわっと立ち昇る。
……ここに居る間、毎日こんななのかよ?
モーフは用を足しながら、げんなりした。
昨日あんなに居た蚊が、今朝は一匹も見えない。植込みを覗いてみたが、全くみつからなかった。
トラックの荷台では、いつも通り、ピナたちが朝メシの仕度をする。
その後ろで、漁師の爺さんが血圧計を使うのが見えた。薬師のねーちゃんが、険しい顔で血圧計の画面を睨む。
力なき民のみんなが荷台に戻ると、虫除けの匂いがますます濃くなった。
何を食べたかわからない朝メシの後、大人たちは四組に分かれ、放送場所の交渉をしに街のあちこちへ発った。
DJレーフとソルニャーク隊長は、FMクレーヴェルのワゴン車で少し遠くへ。
ラジオのおっちゃんジョールチと、魔法使いの工員クルィーロは街の南の港へ。
葬儀屋のおっさんとアマナの父ちゃんは東、ピナの兄貴とラゾールニクは西へ。
物価や品揃えの調査も兼ね、昼メシにも戻らず、一日中マチャジーナ市内を回る予定だ。
モーフは、教科書を読む気になれず、荷台を降りた。
トラックの番をするメドヴェージのおっさんと、荷台の奥で魔法薬を作る薬師のねーちゃんだけが残り、他のみんなは公園へゆく。
犬を散歩する人が通り抜けるだけで、まだ子供の姿はない。
「教科書持って来て、ここで読もっか」
「うん」
ピナの一言でぞろぞろトラックに戻る。
「おうっ。早かったな。忘れモンか?」
「教科書を読もうと思って」
「勉強熱心だなぁ」
感心したおっさんの目は、どこか悲しげに見えた。
モーフは何となく引っ掛かったが、面倒臭そうなので、黙って手提げ袋に教科書を詰める。
公園の長椅子は四人掛けだ。
「虫除けがあるから大丈夫だとは思うけど、念の為、【簡易結界】もしような」
漁師の爺さんは、棒きれを拾って長椅子の周りに円を描いた。モーフには到底、覚えられそうもない長ったらしい呪文を何でもないコトのようにすらすら唱える。
ピナたちが元気に礼を言うので、モーフも合わせて言った。
爺さんは隣の長椅子に腰かけて「魔物図鑑」を読み始めた。古本屋で教科書をたくさん買った時、オマケにもらったものだ。
……俺もあっちにしときゃよかったな。
諦めて、テキトーに持って来た中から一冊出す。
中学の三年間、通しで使う理科の資料集だ。取敢えず、目次を開く。
「あ、これ。蟹のコト載ってる」
ピナの妹が横から覗いて指差す。モーフには難しくて読めない単語だ。
「えっと……何ページ?」
「あ、ゴメン。隠しちゃった」
指が文字をなぞり、端の数字を示す。
「甲殻類の一生、三十八ページだって」
言われるまま、ページを開く。
「真ん中に来て、みんなで見ない?」
アマナに言われて場所を代わった。
隣になったピナが横から覗く。顔が近過ぎて、モーフは逃げ出したくなったが、【簡易結界】を思い出して長椅子に留まった。
蝦と蟹が産まれてから大人になるまでの絵が、見開き二ページに並ぶ。
どちらも卵から産まれるらしい。卵から出た直後は、何の生き物かわからない半透明だ。
……何か、こんな雑妖、見たコトあるな。
ピナたちを怖がらせるといけないので、口には出さない。
その次は、ごちゃごちゃした棒の先にハッキリ目玉ができ、足が増えた図だ。控えめに言って、雑妖っぽさが濃くなった気がする。
成長する度に半透明だった身体がだんだんハッキリしてくる。
……これ、ホントにこの世の生き物なのか?
大人になった姿も、メドヴェージのおっさんが言った通り、足がやたら多くて、手の代わりに鋏がある。しかも、その足は、本体の左右に分かれ、モーフが見たことのあるこの世の生き物のどれにも似たものがなかった。
漁村でもらった干し蝦は、小さくてよく見ずに食べてしまったが、改めて絵にされると、これもこの世のものとは思えない。
「コイツ、沼で育ててるって?」
「って言ってたね」
「美味しいって聞いたコトあるけど」
アマナが頷き、ピナがイヤそうに眉を顰めた。
「食うの? これ?」
「蝦は美味しかったでしょ?」
「うん、まぁ……」
もらった蝦はどれも親指の爪くらいの大きさで、丸ごと食べたが、蟹はどこをどう食べるかわからない。見ただけでは到底、食べられるものだと思えなかった。
この見開きには、蝦と蟹の食べ方は一行も書いておらず、各絵の横に小さい字で難しい単語がずらずら並ぶだけだ。
蝦は最後に背中が曲がって髭が長くなるが、蟹は身体が平べったくなるらしい。
「アビエースさん、蟹の食べ方って知ってますか?」
ピナの妹が、漁師の爺さんに話し掛ける。
爺さんは図鑑に栞を挟んでこっちに来た。
「蝦と同じで、丸ごと茹でれば、いいダシが取れるよ」
「ダシだけ?」
「身も食べられるけど、甲羅が硬くて捌くのが難しいんだよ」
「へぇー……」
どうやら、褐色のトゲトゲした外見は、全体が戦車の装甲のような物らしい。
「寄生虫が居るかもしれないから、食べる時はしっかり火を通すんだよ」
「魚にも居ますし、それはまぁ……」
ピナが微妙な顔になる。
「焼いて食べても美味しいし、甲羅を半分に割って身にチーズを乗せて焼けば、グラタンみたいにもなるんだ」
爺さんが苦笑してお勧めの食べ方を披露すると、ピナの妹とアマナがパッと笑顔になった。
「蟹のグラタン? 美味しそう!」
「そんなに美味しくて育ててるんなら、魚屋さんとかで売ってるよね?」
「あッ……!」
アマナの一言で、みんな時間が止まったみたいに黙った。
☆「魔物図鑑」/オマケにもらった……「1021.古本屋で調達」参照
☆漁村でもらった干し蝦……「1031.足りない物資」参照




