0180.老人を見舞う
「はいはい、おじいさん、今日はね、近所の娘さんが遊びに来てくれましたよ」
老婆が朗らかに声を掛け、寝室の戸を開ける。
むっとする臭気が廊下に流れ出た。
薄暗い部屋に入り、老婆がカーテンを開ける。
「ちょっと耳が遠いから、返事はないかもしれないけど、まぁ、何か言ってやってちょうだいな」
そう促され、アミエーラは老人の枕元へ行って遠慮がちに声を掛けた。
「おはようございます。あの……奥さんに、大変お世話になって……」
「お世話だなんてそんな、遠慮しないで。ウチも久し振りのお客さんで、ありがたいんだからね」
老婆は笑って廊下へ出た。
「今日のお昼はみんなで食べましょうね。ごはんまでお喋りして待っててちょうだいな」
返事も待たず戸を閉める。
アミエーラは、いきなり初対面の老人と二人きりにされて戸惑った。
「あ、あの……」
老婆は、戸も開けずに小声で何事かぼそぼそ言うと行ってしまった。
「えーっと……空気、入れ替えた方が身体にいいらしいんで、ちょっと寒いですけど、開けますね?」
アミエーラは、できるだけ明るく老人に声を掛け、窓を開けた。
老人は頭まで布団を被って返事がない。
……寒いから、その方がいいかな?
朝の冷たい空気が室内に籠った臭気を吹き払う。
ずっと寝たきりでも、老婆はアミエーラにしてくれたように【操水】の術で身体を洗う筈だ。
ならば、この饐えた臭いは老人の体臭だろうか。
……どこか化膿してるのかな?
アミエーラは窓辺に立ったまま声を掛けてみた。
「おじいさん、お加減、いかがですか?」
返事はない。
……まだ寝てるのかな? 無理に起こさない方がいいよね。
盛り上がった布団が動いた。
起きていたのかと口を開きかけ、アミエーラは息を呑んだ。
布団の隙間から巨大な脚が突き出る。昆虫に似た脚は、アミエーラの腕と同じくらいの太さだ。
老人がベッドに身を起こす。
布団がはがれ、上半身が露わになった。
首から下は芋虫だ。裸の体側には、成虫の脚が多数、生えて蠢く。
こちらを向いた顔は干からび、明らかに生者のものではなかった。
何故こんなことになったのかは、わからない。だが、老夫婦の息子たちが去った本当の理由は、わかった。
……逃げなくちゃ……逃げなくちゃ……!
アミエーラと戸の間には、ベッドがある。
胴が芋虫だからか、老人の動きは緩慢だ。
外から冷たい風が吹き込み、アミエーラは振り向いた。窓枠によじ登り、両足を外へ投げ出す。
ドサッ
背後の音に身を竦ませ、肩越しに部屋を見る。
老人の上半身が捻じれ、仰向きにベッドから落ちていた。虫の多脚が上体を起こそうと、カサカサ宙を掻いてもがく。
長い胴はだらりと伸び、下半身はまだ布団に収まる。
アミエーラは声もなく、窓枠から身を躍らせた。
一階とは言え、腰より高い位置から飛び降りたせいで、足の裏がじんわり痺れ、折れた腕に響く。痛みになど構っていられず、もつれる足を叱咤し、一歩踏み出した。
……あッ、お手紙……!
荷物を回収しなくては、ここから逃げてもすぐ野垂れ死にしてしまう。
先程の廊下の道順を思い出しながら、壁伝いに足を進めた。
老婆に助けてくれた礼を言うことも恩返しすることもできない。
ただ、この場から逃れたかった。
恐怖に全身が竦み、泥の中を行くような足取りで、開いた窓の下に何とか辿り着く。少し背伸びして中を覗くと、無人の部屋にアミエーラの荷物がそのまま置いてあった。
ここまで来たものの、途方に暮れる。
床を少し高く作ってあり、外からでは窓に登れそうもない。
……玄関……ダメ。お婆さんに見つかっちゃう。
それに魔法で鍵を掛けてあるかもしれない。
急いで見回す。庭の隅に物置小屋があった。
足音を忍ばせ、そっと戸を開ける。古ぼけた踏み台を見つけた。
痛む腕で踏み台を抱え、掛け足で窓の下に戻る。
踏み台に乗って右腕を窓枠に掛け、精一杯背伸びして左足を上げる。無理な姿勢だが、左腕が折れていては仕方がない。
渾身の力を振り絞り、身体を持ち上げた。
何とか窓枠に上半身を乗せ、腹這いになる。体重の移動を使って室内に降りた。
思わず、大きな息が漏れる。
ぐずぐずしては居られない。
椅子の背に掛けられたコートを身に着け、リュックを手に取る。先に荷物を降ろし、老人の部屋から出たのと同じ要領で自身を降ろした。
荷物を拾おうと腰を屈めた時、視界の端で何かが動いた。
恐る恐る、そちらへ顔を向ける。
老人が、窓から身を乗り出すのが見えた。
踏み台を片付けるどころではない。アミエーラは荷物を掴み、弾かれたように駆け出した。
門の閂を外し、脇目も振らず、力の限り農道を走る。
麦畑の間にまっすぐ伸びた道は、どこまでも続く。見渡す限り人の姿はない。
隣家は遙かに遠く、病み上がりの身に荷物の重さが堪えた。だが、足を止める訳には行かない。
アミエーラは、老婆が昼食の用意を終え、追い掛けて来る前に出来る限りこの村を離れたかった。
☆老婆はアミエーラにしてくれたように【操水】の術で身体を洗う……「0160.見知らぬ部屋」参照
☆お手紙……「0091.魔除けの護符」参照




