1739.残された魔法
「店長さんも、何かとお忙しくて大変だとは思いますが、リストヴァー大学の聖歌隊候補生に歌詞の解説をお願いできたらと思っております」
西教区を預かるヌーベス司祭が、フェレトルム司祭にもわかるよう、共通語で依頼する。
リストヴァー大学の教職員にも星の標団員が居た。
彼らはネミュス解放軍の自治区侵攻時、自ら武器を手にして大学構内を戦場に変えた。星の標に与しない教職員や学生も巻き込まれ、多数の犠牲者が出た為、開講不能になった科目が幾つもある。
幸い、大学図書館は無事だったが、自学自習だけでは、どうしても限界に突き当たるのだ。
「それは……私の、星道の職人用の聖典で、と言うコトですわね?」
「はい。お引き受け下さいませんか? 持ち運びが大変でしょうから、学生さんには私からしっかりお手伝いするよう、言い聞かせますので」
ヌーベス司祭が顔色をよくして一気に言った。
「それが、お恥ずかしい話、今は聖典がないんですの」
「あッ……お店に置いてらしたんですか……そうですよね」
クフシーンカが口を濁すと、ヌーベス司祭は血の気が引いた顔で肩を落とした。大工とフェレトルム司祭も、顔を曇らせる。
ネミュス解放軍との戦闘で、団地地区も大きな被害を受けた。
クフシーンカの自宅兼店舗は、通りに面した仕立屋部分が大破し、壊れた仕事道具は瓦礫と一緒に撤去された。自宅部分が無傷で残ったのは、運がいい方だ。
だが、聖典は、そのずっと以前に自治区から旅立つサロートカに持たせた。
クフシーンカも、事情を知る東教区のウェンツス司祭と老尼僧も、彼らの勘違いを訂正しない。
「私はもうこの歳ですから、お店の再建は諦めましたし、大聖堂からいただいた聖典は、若い人にお譲りしましたの」
嘘ではないが、事実の全てではない。
サロートカの行方を知る者が増えれば、それだけ、クフシーンカと外部の繋がりを知る者も増え、政府軍に漏れる危険性が増す。
心苦しいが、これ以上は言えなかった。
「わかりました。そっちも俺がしましょう」
「よろしいのですか?」
ヌーベス司祭が、大工の力強い声に複雑な表情を向けた。
復興特需は落ち着いたが、まだまだ家屋や個人商店の建設依頼は多い。
「この聖歌の字は、教会の壁に彫る字と同じです。意味はわかりませんけど、星道記の建築の章にもありますし、俺の聖典でも教えられますよ」
クフシーンカが、サロートカに譲った縫製職人用の聖典には、聖職者の衣や祭衣裳の刺繍として載る。
ひとつ深呼吸して、聖歌隊用の楽譜集を手に取り、夏祭りの曲を開いて言った。
「元の歌詞で聞いたのは、半世紀の内乱前で、もうすっかり忘れてしまいましたけれど、この歌は【魔除け】の呪歌です」
老尼僧を除く四人が、声もなくクフシーンカを見る。
「魔法使いの兵隊さんにお願いすれば、正しい発音で謳って下さると思います」
時が止まったような沈黙が降りた。
どのくらい経ったか。
最初に声を発したのは、フェレトルム司祭だ。
「では、やはり、ソフス学派の説は正しかったのですね?」
「ソフス学派……?」
リストヴァー自治区の聖職者三人が首を傾げる。星道の職人二人も初耳で、顔を見合わせた。
「印暦九百五十年頃、神学者ソフスが提唱した学説です」
「初めてお聞きしました」
東教区のウェンツス司祭が呆然と呟くと、大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭は、苦味の混じる微笑で頷いた。
「聖者キルクルス・ラクテウス様が各地を遍歴し、魔力を失った人々が少しでも生き延びられるよう、魔力がなくても実行可能な守りの術を星道記として書き残した、とする説です」
聖職者たちが息を詰めて大聖堂の司祭を見詰める。
「神学者ソフスは印暦九百六十三年、異端者として火刑に処されました」
「えぇっと……つまり、力なき民でも使える魔道書ってコトですか?」
「魔力がないのに行使できるのですか?」
大工とヌーベス司祭の声が重なった。
フェレトルム司祭が、二人の目を見て頷く。
「ソフスの説によると、そうなります。装飾品の章に【光の結晶】の製法があります」
あの時、情報屋の青年は星道記の建築の章を読み上げ、市民病院の呪医と二人掛かりの魔力で、教会に組込まれた守りの術を発動させてくれた。
ネミュス解放軍のコンボイール支部長は、聖職者用の聖典を見て、星道記を魔法だと指摘したが、個別の術までは説明しなかったらしい。
ウェンツス司祭が、五人を見回して言う。
「一度、魔装兵のどなたかに聖典を解説していただいた方がよさそうですね」
「そうですね。聖歌隊候補生には、その後で教えた方がよろしいでしょうね」
あの日、クフシーンカと共に術の発動を目の当たりにした尼僧が、己の言葉を噛みしめるように言って、この場はお開きになった。
クフシーンカが、大工と連れ立って礼拝堂を出ると、菓子屋の亭主と鉢合わせした。すっかりやつれて、別人のようだ。
「あ、あぁ、店長さん、棟梁も、こんにちは」
「こんにちは」
「まぁ、元気出せよ。あんたンとこが悪いワケじゃないんだから」
大工が菓子屋の肩に手を置いて励ます。
「俺は大丈夫だ。俺はいいんだが、女房も製麺所の工員さんが機械でアレした瞬間、見てたらしくて……すっかり塞ぎ込んで、家から一歩も出られないんだ」
「その工員さん、仮設病院で治してもらって、今はピンピンしてるぞ」
大工は明るい声を出すが、菓子屋の亭主は首を横に振った。
「それとこれとは話が別だ。俺は助けるの手伝ったけど、しばらく食事が喉を通らなかったし、今も肉は無理だ」
答えた菓子屋の顔は、暗いままだ。
「製菓の区画は関係ないが、すぐ横の製麺がまだゴタついてるんで、当分は仕事にならんし」
「工員さんは一時帰休か……賃金保証がキツいな」
「いや、識字教室に行ったら、食糧を分けてもらえるから、今は字の勉強させてるよ。機械の注意書きが読めないせいでアレしたんだからな」
「そりゃ必死で勉強するな」
大工が深く頷く。
「でも、教材が古新聞じゃ、仕事ですぐ使えないから、この間言ってたマニュアルの件、どうなっ」
「それ!」
「今、司祭様に頼まれて引受けたとこなんだ!」
「えッ?」
菓子屋の顔が、一気に明るくなった。
「これ、安全教育の資料。簡単な言葉に書き換えて教材作って欲しいって」
大工が大判封筒を見せると、菓子屋は涙ぐんで何度も礼を言った。
☆リストヴァー大学の教職員にも星の標団員……「1239.見えない命綱」参照
☆ネミュス解放軍の自治区侵攻……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照
☆ネミュス解放軍との戦闘で、団地地区も大きな被害……「918.主戦場の被害」参照
☆聖典は、そのずっと以前に自治区から旅立つサロートカに持たせた……「582.命懸けの決意」「583.二人の旅立ち」参照
☆事情を知る東教区のウェンツス司祭と老尼僧……「1576.消息を明かす」参照
☆情報屋の青年は(中略)教会に組込まれた守りの術を発動……「896.聖者のご加護」参照
☆コンボイール支部長は、聖職者用の聖典を見て……「0941.双方向の風を」参照
☆製麺所の工員さんが機械でアレした/この間言ってたマニュアルの件……「1718.労災事故対策」参照




