1738.聖歌の楽譜集
クフシーンカは、星道の職人として、リストヴァー自治区東教会の応接室に呼ばれた。
既に東西両教区の聖職者、建築分野の星道の職人、そして、大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭が顔を揃える。
応接室の隅には、段ボール箱が五箱積んであった。
「お待たせ致しまして恐れ入ります」
「いえいえ、お約束の時間まで、まだ五分もありますよ」
クフシーンカが共通語で言って空席に腰を下ろすと、老尼僧も流暢な共通語で返して微笑んだ。
「それでは、始めましょう」
東教区を預かるウェンツス司祭が宣言し、フェレトルム司祭に視線を送る。大聖堂の若きエリート司祭は、ネモラリス人の一同を見回して言った。
「ネモラリス政府軍の魔装兵が、ここ、リストヴァー自治区に派遣されて以来、市街地に於ける魔物による捕食被害や、クブルム街道へ薪採りなどに行かれた方々が、魔物や魔獣、野生動物に襲われる人身被害が全くなくなりました。喜ばしい限りです」
「農村地帯でも、人身被害や農作物の食害がなくなりまして、非常に有難いことです。無事な収穫物が増えましたので、東教区の皆さんも、昨年より新鮮な野菜が手に入りやすくなる筈です」
西教区担当のヌーベス司祭も、共通語で付け加えて頷くが、その表情は複雑だ。
「それは結構なのですが、区長が山道へ行き難くなりましてね。外部とインターネットで連絡できなくなっていたのですよ」
「今はできるんですの?」
クフシーンカが聞くと、ヌーベス司祭は頷いた。
「先週、運動不足解消の為に山歩きする案を思い付いたそうで、早速、日曜に避難小屋まで登って来られましたよ」
区長は、ネミュス解放軍のリストヴァー自治区侵攻までは、密輸したタブレット端末で、アーテル共和国やバルバツム連邦に散らばる星の標と、頻繁に連絡を取り合った。星の標リストヴァー支部長としてのよからぬ企みだけでなく、自治区長として、キルクルス教団に食糧や医薬品など、救援物資の要請も送る。
解放軍との戦いに敗れ、協定を結ばされた星の標は、武装解除され、フェレトルム司祭たちの許で再教育を受ける。
解放軍側も協定を守ってクブルム街道を再整備し、自治区から北ザカート市付近までの山道を安全に通れるようにした。
お陰で、薪や木の実を採りに行くのがかなり楽になり、自主帰還したゾーラタ区民との交流も増えた。
だが、協定は、アーテルの星の標とインターネットで通信し、魔哮砲の情報収集をせよと求める一方で、政府軍の庇護下に入れと命じる。
確かに、政府軍による魔装兵の派遣以前とは、比較にならないくらい安全になったが、解放軍との協定や、外国との通信を政府軍に知られるワケにはゆかず、連絡し難くなった。
緑髪の運び屋たちも、クブルム街道の避難小屋に救援物資などを届けられなくなり、密かにクフシーンカ宅や、深夜に東教会の執務室へこっそり置きに来るようになった。小屋の警告も、「避難小屋の使用心得」に貼り替えてある。
「大丈夫だったんですか?」
建築分野の星道の職人……大工の壮年男性が、ヌーベス司祭に恐る恐る聞く。
この場の全員が、バンクシア人のフェレトルム司祭に合わせて共通語で話す。
「ご自宅で文章を打ち込んで、ラクリマリスの電波が届く所まで街道を登ってから、ポケットの中で送信ボタンだけ押して、小屋で休憩して帰ったそうです。監視を兼ねてでしょうが、街道では魔装兵がずっと護衛したそうですから、安全面では申し分なかったと思いますよ」
「連絡、ついたんですか?」
「区長が送った分が届いたか、まだわかりませんが、向こうが送って溜まっていた分は、受信できたそうです。来週の日曜、天気がよければ、返事を送りに行かれるそうです」
雨天では無理だが、週に一回でも、全くできないよりはマシだ。
……もっと早くに思い付ければねぇ。
自治区民はインターネットに疎く、バンクシア人でインターネットに詳しいフェレトルム司祭は、人を出し抜こうなどと思いもしない真っ直ぐな気性だ。
「時間は掛かりますが、救援物資などは、既に手紙で何度も、教団本部に要請しておりますからね」
東教区のウェンツス司祭が言うと、フェレトルム司祭が、段ボール箱を掌で示した。
「今回の便でやっと、聖歌の楽譜集が届きました」
バンクシア共和国にあるキルクルス教団本部は、インターネットでラニスタ共和国のジンクム教会に問合せ、湖南語の楽譜データを取り寄せた。
物資が豊富なバンクシアで、湖南語と共通語二カ国語表記の楽譜集を印刷し、今回の救援物資と共に届けたのだ。
「百冊だけですが、聖歌隊用に聖歌本来の歌詞を追加した楽譜集もありました」
ウェンツス司祭が、段ボール箱から厚さの異なる冊子を二冊出して、応接机に置いた。
薄い方は、一般信徒用だ。
同じ聖歌の楽譜だが、見開きの左ページは共通語、右ページは湖南語で載る。
分厚い聖歌隊用は、それらの次の見開きに力ある言葉の楽譜と、どんな時に謳うか、簡単な説明があった。
「聖歌でしたら、みなさんご存知ですから、識字教室でもきっと、文字の形や綴りを学びやすいでしょう」
フェレトルム司祭がにっこり微笑む。
尼僧が、聖歌隊用の楽譜をパラパラ捲って聞いた。
「こちらは、聖歌隊候補生に配布するのですか?」
「はい。東教区と西教区で五十冊ずつに分け、十冊は異端者の再教育にも使います」
フェレトルム司祭が胸を張って応え、地元の聖職者たちが顔を見合わせた。
大工とクフシーンカも、同時に息を呑む。
……思い切ったコトを。
ウェンツス司祭が言う。
「それから、大工さんには、なるべく簡単な言葉で、安全教育の手引書を作っていただきたいのです」
ウェンツス司祭は、膨らんだ大判封筒を手渡した。
中身は、緑髪の運び屋が数日前の深夜、教会の執務室に置いて行ったアミトスチグマ王国の安全教育資料だ。
「それも、識字教室の教本にするんですね?」
「そうです」
大工が引受ける意思を見せると、応接室の空気が明るくなった。
☆大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭……「1007.大聖堂の司祭」~「1009.自治区の司祭」参照
☆ネミュス解放軍のリストヴァー自治区侵攻……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の参照
☆密輸したタブレット端末……「629.自治区の号外」「630.外部との連絡」「1080.街道の休憩所」参照
☆解放軍との戦いに敗れ、協定を結ばされた星の標……「919.区長との対面」~「921.一致する利害」「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」「0941.双方向の風を」~「0943.これから大変」参照
☆武装解除され、フェレトルム司祭たちの許で再教育……「0941.双方向の風を」「0942.異端者の教育」「1007.大聖堂の司祭」「1008.動かぬ大聖堂」「1038.逃げた者たち」「1131.あり得ぬ接点」参照
☆クブルム街道を再整備……「0991.古く新しい道」「0944.聖典の取寄せ」「1080.街道の休憩所」「1131.あり得ぬ接点」「1170.陸水軍の会議」参照
☆魔装兵の派遣以前とは、比較にならないくらい安全……「1326.街道の警備兵」参照
☆小屋の警告……「1038.逃げた者たち」「1080.街道の休憩所」参照
☆アミトスチグマ王国の安全教育資料……「1599.手に入る教材」参照




