1736.三頭の四眼狼
「あっ、あんなとこから犬が」
誰かの声で、ロークはそちらに目を向けた。
四車線道路を挟んだ向かいの街区だ。三頭は、雑居ビルに挟まれた細道から唐突に姿を現した。
赤毛の業者が、雇い主とロークたちの背後に回り、低い声で早口に力ある言葉を詠じた。ロークの全く知らない呪文だ。
クラウストラの隣で、男子中学生が呟く。
「飼い主、どこだろ?」
「あれ、ヘンじゃない?」
「目が……」
「四つ……ある?」
大人たちが風にそよぐ葦のようにざわめく。
首輪のない大型犬。形はシェパードに似るが、被毛はいずれも昼前の陽射しを浴びて銀色に輝く。
ロークは背中の毛が一気に逆立った。
……四眼狼!
車道は時折トラックが通過するだけで、交通量は少ない。どこから涌いたか不明だが、真っ直ぐスーパーマーケットに向かって来る。
「どうします?」
「ど、どうって?」
年配の魔獣駆除業者に声を掛けられ、雇い主の男性が引き攣った顔でこちらを向いた。あちこちで悲鳴が上がり、店の入口に人が殺到する。
「あなた方だけ逃がす方が安上がりですよ」
「お支払いします! やっつけて下さい!」
業者二人が、力ある言葉を唱える声が重なる。
後から唱え始めた先輩格の術が先に完成した。
ルフス光跡教会で、クラウストラが使ったのと同じ【光の槍】だ。爆撃機を一撃で撃墜する光が、逃げ惑う人々の頭上を飛び越え、四眼狼の背に突き立った。アスファルトに縫い留められた魔獣が、犬のような悲鳴を上げてもがく。
「ここを動かないで」
詠唱を終えた赤毛の業者は、一言告げて四人の正面に立ち、雇い主父子を広い背中で庇う。
人々の悲鳴が更に大きくなった。
逃げ遅れた者たちが散り散りに走る。
腰を抜かした者が、泣き叫びながら這う。
一頭が、腰回りを濡らして這う若者の肩を前足で押えた。牙が首へ向かう。
先輩格が再び放った【光の槍】が、魔獣の肩に刺さる。魔獣は血飛沫を撒き散らしながら、数メートル先に落ちた。
血を浴びた若者が、声にならない悲鳴を上げる。
「強い魔物や魔獣には、魔法を防ぐ力があるから、強力な術でもすぐには死なないんだ」
赤毛の青年が、残る魔獣の動きを視線で追いながら、不安な言葉を口にする。
確かに、報告書では、ネモラリス政府軍とネミュス解放軍の戦闘で、首都クレーヴェルの家屋が大破し、地面に大穴が穿たれたとあったが、この戦闘ではアスファルトに小さな穴が開いただけだ。
……魔獣の魔法防禦で、威力を殺がれたのか。
残る一頭は、仲間の死を意に介さず、ロークたちの方へ走って来た。
声を上げる間もなく、牙がロークの眼前に迫る。
ルフス光跡教会で双頭狼に襲われた瞬間が鮮明に蘇った。
四眼狼の顔が歪む。ロークの視界が薄青く色付き、現実感が薄れた。見えない壁に当たった魔獣が、弾みで背からアスファルトに落ち、情けない悲鳴を上げる。すぐ立ち上がり、耳を伏せて低く唸った。
「三方向に【真水の壁】を建てたから大丈夫。ここを動かないで」
赤毛の業者に落ち着いた声を掛けられ、ロークは人の頭部を貼り付けた双頭狼の記憶から、目の前の現実に意識を向けられた。
薄青く色付いた【真水の壁】の向こうで、三頭目もあっさり始末される。
年配の業者が、作業服の腰に吊るした工具袋から小さなペンチを出した。魔獣の死骸から牙を折り取り、眉毛を引き抜く。
赤毛の業者が力ある言葉を唱えた。クラウストラが何度か唱えるのを聞いた【索敵】だ。
「もう大丈夫。この近くには他の四眼狼は居ないよ」
「ホ……ホントですか?」
クラウストラが細い声で聞く。なかなかの名演技だ。
「あっちの角の街路樹の下には、土魚が居るけど、地上には出てないから、近付かなければ大丈夫」
「そんなコトまでわかるんですか?」
雇い主が震える声で聞く。
「障害物を越えて遠くまで見る【索敵】の術です」
「じゃあ、この青い壁は?」
父にぴったり身を寄せた少年が、やや元気を取り戻して赤毛の大男を見上げる。
「これは【真水の壁】って言う魔法の壁。何回かぶつかったら壊れるけど、さっきもちゃんと守ったろ」
「う、うん。有難う!」
少年が明るい笑顔を見せると、赤毛の青年は頬を緩めた。
ロークはまだ、震えが止まらない。
赤毛の青年が、先輩格の業者に手振りで合図を送り、スーパー併設の駐車場へ移動した。
ロークは、大きな背中が離れてゆくのを不安な目で追うが、足が震えて一歩も動けない。
「水道、借りていいですか?」
「えっ、あっ、あぁ……あぁ」
赤毛の業者は立ち竦む店員に声を掛け、彼が頷くのを待って蛇口を捻った。【操水】を唱える声に合わせて水が動く。宙を漂う水塊が乗用車くらいになったところで水を止め、店舗前に戻る。
返り血に塗れて震える男性客を洗い、アスファルトを赤黒く染める魔獣の血を清水が絡め取る。牙を抜かれた死骸を水が呑み、一カ所に積み上げた。
年配の業者が、ボールペンでアスファルトに線を引き、死骸の山を囲む。唱えた呪文は【炉】だ。
三頭の四眼狼は瞬く間に炎で包まれ、客と従業員が固唾を飲んで見守る中、無害な灰に変わる。水塊が灰を取り込み、店舗前の可燃ゴミ用のゴミ箱に四眼狼だったものを吐き出した。
赤毛の業者が、水を店舗と駐車場を隔てる側溝に流し、周囲を見回す。
逃げる際に転ぶなどした者は居るようだが、四眼狼に直接、危害を加えられた負傷者は居ないようだ。
「大丈夫?」
「う……うん……教会のアレ、思い出しちゃって」
ロークは辛うじて答えられたが、声は情けなく震えた。クラウストラが、震えの止まらない肩をポンと叩く。
「もう大丈夫だから」
彼女の手のぬくもりで肩からやや力が抜けた。
年配の魔獣駆除業者が、何事もなかったように聞く。
「行列はなくなりましたが、ここで買物しますか?」
「は、はい! 有難うございます! 昼ごはん、お好きな物をどうぞ」
四人が連れ立ってスーパーマーケットに近付くと、入口付近に詰まった人垣が割れ、誰からともなく拍手が起こった。泣きながら、何度も礼を言う老婆も居る。
……何だこの状況?
ロークは呆気に取られ、恐怖感が消えた。
「店長」の名札を付けた女性が、ドスドス足音を響かせて駆け寄る。
「化け物をやっつけて下さって有難うございます。お陰様で、お客様と従業員、皆さん無事で、助かりました。些少ではありますが、何でもお好きな物をお持ち下さい」
「我々は、この方に雇われた身です。報酬を二重取りするワケにはゆきません」
年配の業者が答えると、店中がどよめいた。
☆ルフス光跡教会で双頭狼に襲われた瞬間/教会のアレ……「1076.復讐の果てに」参照




