1718.労災事故対策
「大変だー! 司祭様ーッ!」
菓子屋の亭主が、リストヴァー自治区東教会に血相を変えて飛び込んだ。調理服に髪全体を覆う不織布の帽子の仕事着姿で、礼拝堂を見回す。
「兵隊さんも来て下さい! お願いします!」
裁縫の指導中だったクフシーンカは、菓子屋のただならぬ様子に息を呑んだ。布小物を作る信徒たちも、不安げな顔を菓子屋と尼僧、星道の職人クフシーンカに向ける。信徒の一人が、執務室へ司祭を呼びに走った。
「どうされました?」
魔装兵の一人が聞いたが、菓子屋の亭主は譫言のように司祭を呼ぶだけで、状況がわからない。
訳もわからず手を引かれて出て来た司祭は、菓子屋のただならぬ様子に表情を改めた。
「何があったのですか?」
「し、司祭様! こ、工場! 製麺所で、機械に挟まれたんです!」
「えぇッ? 亡くなられたのですか?」
「ま、まだ生きてます! 製麺所の社長が仮設病院へ連れてくって言うんですけど、本人は痛くないし魔法が怖いからヤだって……このままじゃあいつ……」
礼拝堂の空気が一気に凍りついた。
「わかりました。説得します」
「兵隊さんも来て下さい!」
魔装兵が顔を見合わせ、一人が司祭に続いて走る。
すぐエンジン音が遠ざかったが、礼拝堂に残った者たちは、誰一人として動けなかった。
最初に気を取り直したのは、老いた尼僧だ。説教壇に立って、怯えた信徒を見回すと、落ち着いた声で告げた。
「みなさん、お怪我をなさった工員さんの為に祈りましょう」
作業どころではなくなった信徒たちが、説教壇に向き直る。クフシーンカも、尼僧の背後に佇む聖者キルクルス・ラクテウスの像を見上げた。
聖典の一節を諳んじる声があちこちから起きる。
司祭は夕方、クフシーンカが帰宅する頃になっても、教会へ戻らなかった。
翌朝、クフシーンカを迎えに来た新聞屋が、浮かない顔で言った。
「店長さん、あの記事……読みましたか?」
「えぇ。食品の仮設工場……昨日、お菓子屋さんのご主人が、東教会へ来られたのですけれど、あの後どうなったのか、気を揉んでおりましたのよ」
「ご存知でしたか」
今朝の朝刊によると、食品関連の共同仮設工場で初の重大労災事故が発生した。工員は、製麺所区画の生地を伸ばす機械に右腕を挟まれ、意識不明の重体だ。朝刊の降版は深夜一時。配達された時点の容態ではない。
……機械に挟まれて命が危なくなっても、魔法の治療を拒むなんて。
記事によると、現在はグリャージ区の仮設病院に入院中らしい。司祭の説得に応じたのか、魔装兵が問答無用で【跳躍】したのか、報道からは読み取れなかった。
新聞屋のワゴン車が東教会に着くと、製麺所のワゴン車も入って来た。
「あ! 店長さん! 昨日はとんだお騒がせを……」
運転席から降りたのは、背広を着込んだ菓子屋の亭主だ。製麺所の社長も背広姿で、首筋をハンカチで拭きながら、助手席を降りる。
「これはどうも。お騒がせ致しまして……」
「社長さんはご無事でしたのね。あの後、礼拝堂に居合わせたみなさんで、工員さんの回復をお祈りしたんですのよ」
「恐れ入ります。丁度いいので、店長さんと新聞屋さんも、少しお時間いただけませんか?」
四人で話ながら礼拝堂へ向かう。
「我々はこの後、警察へ呼ばれてますんで、ほんの少しだけですが、その前にお知恵を拝借願えたらと」
ボソボソ話す製麺所の社長は、一回り小さく見えた。
クフシーンカは杖を突いて追いすがりながら答える。
「私で何かお力になれるようでしたら」
朝の礼拝が終わったばかりで、職場や識字教室へ行く大人たちが、ぞろぞろ出てゆく。
識字教室が始まってから、教会や空き教室で手仕事をする者が減った。今も教会で手仕事をするのは、読み書きのできる失業者や、子供がまだ小さいなどの事情がある者ばかりだ。
クフシーンカは、作業の準備をする者たちと朝の挨拶を交わしながら、菓子屋と亭主らと共に奥の執務室へ向かった。
東教区を預かるウェンツス司祭が、疲れた顔で四人を迎える。
応接用の長椅子に浅く腰掛け、製麺所の社長が挨拶もそこそこに口火を切った。
「口を酸っぱくして毎日毎日、機械が動いてる間は触んなって言ってたんですけどね。何か引っかかって止まったらしくて、あ、あんな……あんな……」
「これから二人で警察の事情聴取なんですけど、どうにか再発防止できないもんかと、お知恵をお借りしたくて」
「他の連中はどうしたんだ? 共同工場だろ? 今日も作ってんのか?」
頭を抱えて泣き出した社長に代わって、菓子屋の亭主が言うと、新聞屋が首を傾げる。現場は、菓子屋一軒、パン屋二軒、製麺所三軒の小麦粉を扱う共同仮設工場だった。
答えたのは、ウェンツス司祭の沈痛な声だ。
「パン屋さんのお一人は、事故の瞬間を目撃なさったそうで、卒倒して床で頭を強く打ち、工員さんと一緒に仮設病院へ運ばれました」
「まぁ……」
クフシーンカは掛ける言葉を失い、工場を共同経営する二人を見た。
「えぇ、まぁ、そんなアレなんで、無事なパン屋ともう一軒の製麺所も、工員が怖がって仕事どころじゃないんで、取敢えず、今週いっぱいは工場を閉めて、役所に提出する事故報告書と再発防止の研修計画書を作るんですけどね」
「どんな研修すりゃいいかわかんねぇ、と?」
新聞屋が身を乗り出して切り込むと、菓子屋の亭主は、泣き崩れる社長を横目に頷いた。
「何せ、経営者五人とも、あんな事故は初めてなもんで……」
「大きい工場には、マニュアルがありますから、今回は参考に写させていただいて、工員さんたちには、それで学んでいただくのがよろしいのではなくて?」
クフシーンカは、国会議員を務める弟から、本社がクレーヴェルなど自治区外にある工場では、必ず安全マニュアルを備え、月に一度は研修があると聞いた。
「それが……東教区の人だけ雇ったら、みんな字が読めない人だったんですよ。機械の取扱説明書どころか、本体の注意書きも読めなくて」
菓子屋の亭主がぼやく。
製麺所の社長が、嗚咽混じりに説明を絞り出した。
「それで、毎回、口頭で注意……覚えて……うぅ……」
「それでは、安全マニュアルと、機械の取扱説明書を教科書にして、読み書きの学習からになりますね」
ウェンツス司祭が深い息を吐いて言った。




