1714.妨げになる者
昨夏から続く麻疹の流行もそうだ。
半世紀の内乱終結後、ネモラリス共和国には、世界保健機関から麻疹などのワクチンが無償提供された。
だが、独立直後のネモラリス共和国は、半世紀の内乱からの復興がなかなか進まず、翌年以降、充分なワクチンを自力調達する財源を確保できなかった。
二十代前半のクルィーロが小学校に入学する頃、ようやく何とかなり始め、接種率が向上してきた。だが、親世代には、予防接種を受けられなかった者が多い。
ワクチンだけではない。医療機関の再建も、医療者の人手も足りなかった。ずっと平和だったなら助けられた筈の命も、助からなかったのだ。
保健衛生すらままならない財政状況で、住民の生活再建に注力しなければならないのでは、観光振興どころではない。外国から病気が持ち込まれたら、あっと言う間に広まるだろう。
……わざわざ不便で危ないとこに旅行する物好き、居ないよなぁ。
「もし、ネモラリスも神政復古してたら、どうなってたと思います?」
「ラクリマリスとアーテルから爪弾きにされた民を受け容れた上で、か?」
クルィーロが思い切って聞くと、カピヨー支部長は仮定の話を笑い飛ばさず、条件を確認した。
演説内容がシェラタン当主の本心なら、政体以外の条件は変わらないだろう。
クルィーロとDJレーフは、同時に頷いた。
「民主主義のやり方では、何を決めるにも時間が掛かる上、制約が多い」
カピヨー支部長はそれだけ言って、ソファから腰を上げた。クルィーロは後ろ姿を視線で追う。執務机の抽斗から紙を一枚取って、応接席に戻った。
折り畳まれた紙を卓上に広げる。
ラキュス・ラクリマリス共和国時代の地図だ。
「ゼルノー市の状況は知らぬが、ネモラリス島の都市では、復興の区画整理事業がなかなか進まなかった。何故かわかるか?」
「予算不足だからですか?」
「それもあるが、私権を制限する法律を作らねばならなかったからだ」
急に話が難しくなり、クルィーロは隣のDJレーフを見た。
「地権者がすんなり土地を明け渡せばいいですが、そうでない場合、都市計画を立案しても、その部分のせいで着工できません」
クルィーロは、初めて突きつけられた視点に息を呑んだ。
卓上に広げられた古い地図では、ネモラリス領の都市は変わらないが、ラクリマリス領の都市は今より多い。
ラクリマリス王国領には、再建を諦めた都市があるのだ。
実際に通過した南ザカート市は、僅かな痕跡を残すだけで、草に埋もれ、人の気配がなかった。
ネモラリス共和国でそんな場所があるとは、聞いたことがない。
対象を絞ればその分、復興予算を圧縮できる。
だが、元の住民を強制移住させなければ、できない手法だ。
「防壁の範囲が決まりませんし、道路と上下水道も通せません。学校や病院などの着工も遅れ、生活の不安が解消されません」
「左様。ゴネた者が既得権益にしがみつけば、素直に開け渡した者が損をする。私利私欲を貪り公益を蔑ろにするゴネ得を許せば、世の秩序が乱れるであろう」
DJレーフがすらすら答え、カピヨー支部長は満足げに説明を付け加えた。
そこまで言われれば、クルィーロでもわかる。
「国が新しくなって、法律を作るのにも時間が掛かるから、その間に家とか建って、労力と立退き費用が余分に掛かったってコトですね」
「そうだ。我が家も随分、役所に土地を明け渡し、残った所には共同住宅を建てて行き場のない民を受け容れた。だが、全ての地主が同じようにできるとは限らんのだ」
……そりゃまぁ、お城に住んでる人と同じコトはできないよな。
「神政ならば、当主様のご意向で如何様にもできる。一部の者からは不満も出ようが、それで多くの弱き者や、持たざる者が助かるならば、止むを得まい」
区画整理が早く終わり、インフラ整備が進めば進む程、力なき民の暮らしは楽になる。
店や工場などの再建が進んだ分、就労場所が増え、貧困から抜け出せる世帯が増える。
世帯収入が増えれば、税収が増えて福祉関連の支出が減り、他の事業にも予算を回せるようになる。ネモラリス社会は、もっと早く落ち着きを取り戻せたかもしれない。
……でも、そんな上手く行くのかな?
「シェラタン様は、いい人みたいなんでいいんですけど、もし、暴君だったら、ヤバくないですか?」
「神政最大の懸念はそこだが、未だかつて、そのような当主の御代が長く続いた例はない」
「えッ?」
クルィーロは、歴史の勉強を熱心にしなかったのを悔んだ。
「次の当主様が速やかに立て直しを図り、上手く行ったからこそ、数千年もの長きに亘って神政の世が安定して続いたのだ」
大昔のコトは知らないが、そう言われると、何となく納得できた。
「でも、シェラタン様にはその気がありませんよね? 陸の民やキルクルス教徒が疎外感を覚えて、却って国が乱れるから、それぞれ代表を出しあって、仲良く国をまとめて欲しいって言ってたって、校長先生が言ってましたよ」
「その演説は新聞には載ったが、教科書には載らなんだ」
「えぇ。父も知らなかったって言ってました」
「貴殿らが知りたいのは、その理由か?」
クルィーロは正直に頷いた。DJレーフも同意を示す。
カピヨー支部長はソファに身を沈めた。
「湖水の光党には、神政復古を求める右派が多い。秦皮の枝党はそうでもないようだが、何やら思うところがあったようで、話がまとまって、掲載が見送られたのだ。以来、俎上に載らん」
村人から得た断片的な情報では、首都クレーヴェルは、ネミュス解放軍が完全に掌握し、新しい国造りの準備が進行中らしい。
陸の民でも、役人や官僚は首都に留まり、業務を続ける。
昨夏の麻疹流行の際、ネモラリス島北東部にワクチンを届けたのは、ネミュス解放軍のクーデター政権だ。
「シェラタン当主がずっと行方不明だったら、ウヌク・エルハイア将軍が王様になったりとか」
「将軍ご自身は、イヤがるであろうな」
「じゃあ、神政復古できませんよね?」
「シェラタン様の弟君がしゃしゃり出る気配でもあれば、話は別であろうな」
カピヨー支部長は、当然のように言う。
ウヌク・エルハイア将軍と直接、話したことのあるDJレーフが、深い溜め息を吐いた。
☆昨夏から続く麻疹の流行……「1090.行くなの理由」→「1474.軍医の苛立ち」参照 ※まだ、トポリなどでは継続中
☆世界保健機関から麻疹などのワクチンが無償提供……「1202.無防備な大人」参照
☆演説内容……「1650.民主制の堅持」「1651.緑髪の民主派」参照
☆再建を諦めた都市/南ザカート市……「0205.行く先は何処」「0208.何かいい案は」「535.元神官の事情」参照
☆上手く行ったからこそ、数千年もの長きに亘って神政の世が安定して続いた……「1051.買い出し部隊」「1177.散らかる意見」参照
☆シェラタン様にはその気がありません……「1650.民主制の堅持」「1651.緑髪の民主派」、「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照
☆村人から得た断片的な情報……「1541.競い合う双子」「1553.贖罪で生かす」参照
☆湖水の光党……「0985.第二位の与党」参照
☆ネモラリス島北東部にワクチンを届けたのは、ネミュス解放軍のクーデター政権……「1286.接種状況報告」参照




