0175.呪符屋の二人
店内は、映画で見た酒場……バーのような造りだ。背の高い椅子が幾つかカウンターの前にあった。その背後には、酒瓶やグラスではなく、紙や布の束、色とりどりの粉が入った瓶、酒ではなさそうな液体の瓶、中身不明の壺が所狭しと並ぶ。
一枚板のカウンター内には、革のエプロンを着けた中年男性が一人。椅子には先客らしき女性がいた。
二人とも髪と瞳が緑色。湖の民だ。
……魔法使い。
ファーキルの胸の奥で、鼓動が高鳴る。
魔法使いに会いに来たのだが、いざ対面すると頭が真っ白になった。
緑色の瞳が、陸の民の少年を見詰める。女性は二十代半ばくらいに見えるが、落ち着いた眼差しは、もっと年上にも見えた。
「まぁ、そこ、座れや」
中年男性に声を掛けられ、ファーキルはぎこちなく頷いた。背伸びして椅子に腰掛け、荷物を膝に乗せる。
ようやく、何をすべきか思い出し、ポケットから小さく折り畳んだ紙を引っ張り出した。
小さな震えが止まらない手で何とか広げ、店長らしき男性に見せる。
一瞥した店長は、僅かに顎を引いた。その目が先客に移る。
緑の視線が交差し、女性は懐からタブレット端末を取り出した。慣れた手つきで操作し、画面をファーキルに向ける。
そこには、ファーキルが持つ紙と同じ図が描いてあった。
「まさか、こんな子供が来るとは思わなかったけど、いいの?」
緑髪の女性は、幼児に言うような口調でファーキルに尋ねた。
ここは呪符屋。魔法文明圏なら、ありふれた商店だ。
完成品の呪符の販売だけでなく、素材となる様々な種類の紙や布、色素の粉末、それを溶く特殊な液体の計り売りもする。
開け放しの戸の隙間から奥が見え、天秤や大小の薬匙、フラスコ、ビーカーが覗いた。
ファーキルが、女性に符牒の図を描き写した紙を渡しながら、こくりと頷く。
女性が念押しする。
「坊や、ただの家出じゃ済まないのよ」
「わかってます」
自分でも、予想外にしっかりした声で応じられた。
鞄から封筒を取り出す手は、震えが治まっている。
両親と祖父母が学費として貯めたカネとファーキルに渡した小遣いの全て。母親の管理するパスワードを盗み見て、インターネットで銀行口座を解約した。持ち出したのは、ファーキル名義の全財産だ。
「どうせ親のカネだろうが、あんまり人を信用し過ぎると、長生きできんぞ」
店長は封筒を受け取り、中身をチラリと見て言った。
大卒会社員一年生の給料半年分と同じくらいの額だ。
「例えば、私たちが坊やを湖に捨てて、そのおカネ盗っちゃうかも……とか、思わないの?」
「手間は同じですよね」
ファーキルが即答すると、湖の民は顔を見合わせて笑った。
「成程な。違いない」
「もうちょっと、人を疑うことも覚えた方がいいのよ?」
「信じても疑っても、僕には何の抵抗もできません。それなら、そもそも、ここへは来ない……関わらないのが一番いいってコトになります」
ファーキルがきっぱり言うと、二人は真顔に戻った。
「坊主、ホントに覚悟は決まってるんだな?」
「帰るなら今の内よ」
口調を改め、念を押す。
ファーキルは店長と女性、二人の緑の瞳を順に見て、それぞれに頷いてみせた。
緑髪の魔法使いたちが困り顔を見合わせる。
「そうだな。渡し賃にはちと多い。これも持ってけ」
店長は棚の一角を探り、手袋を一組、カウンターに置いた。
革手袋で、左は手の甲、右は掌に複雑な文様が描いてある。
「左は【不可視の盾】、右は【退魔】だ。安物でもいいから、【水晶】を握って呪文を唱えりゃ坊主にも使える」
「えっ? いいんですか?」
ネット上で取引される魔法の道具は、気が遠くなるような高値だ。
店長はニヤリと笑って手袋を押しやった。
「釣銭代わりだ。あっちに渡りゃ、ここのカネなんざ、持っててもしょうがねぇからな」
ファーキルは身体の芯が熱くなった。恐る恐る手に取り、礼を言う。
「ありがとうございます」
「坊や、呪文は知ってるの?」
コクリと頷き、ファーキルは【魔力の水晶】を取り出してみせた。結晶の中で、淡い光が瞬く。
「あ、それも持ってんの。ちょっと貸して」
女性は手を伸ばし、結晶を摘まみ上げた。中の光が輝きを増す。
ファーキルが呆然と見ていると、女性は喉の奥で笑った。
「坊や、ホントにお人好しねぇ。今みたいのは、さっと手を引っ込めて取られないようにしなきゃ」
「すみません」
「いいのよ。魔力を補充したら、すぐ返したげるから」
「あ……ありがとうございます!」
ファーキルが勢いよく頭を下げると、女性は拗ねたような声で言った。
「店長が仲介料のお釣、渡したりするから、私も渡し賃のお釣、あげなきゃいけなくなったのよ?」
「あぁ、はいはい。それ終わったら、さっさと行け」
店長は、シッシッと犬を追い払うような手真似をして苦笑した。




