1693.ざわつく感情
ロークは、昼休みを早めに切り上げて呪符屋に戻った。
交代したスキーヌムが戻ったのは、休み時間を三十分も過ぎてからだ。
眼鏡越しに怯えた目を向ける彼に続いて、エプロンドレス姿の偉丈夫が視界に入り、ロークは怒声を飲み込んだ。店番の相棒が蚊の鳴くような声で詫びる。
「遅くなってすみません」
「やっと戻ったか。ローク、こっち手伝ってくれ!」
ゲンティウス店長の声が作業部屋から飛び、スキーヌムが身を竦ませて俯く。
クロエーニィエが人差し指を唇に当て、カウンターに紙片を置いて出て行った。
ロークは素早く目を走らせ、ポケットに捻じ込んで作業部屋に引っ込む。
メモは、ロークの件への了解の他、ファーキルからの情報だ。
今日、インターネットの匿名掲示板に犯行予告の書込みがあった。湖南語圏で広く使われるもので、いたずらも多い。
だが、同じ内容が、ラニスタ魁日報社公式SNSで、全く無関係な投稿のコメント欄にも来た。
新聞社がアーテル大使館に連絡したところまでは、インターネットの速報ニュースに流れたが、大使館や、通信遮断下にあるアーテル本国の動きは不明だ。
明日の午後、スピナ第一小学校を爆破する。
どちらの書込みもそれだけで、時間帯や犯人の素性、目的などは不明。いたずらの可能性が高いが、昨秋は何の前触れもなく連続爆破があっただけに楽観視できなかった。
魔獣による休校措置が続き、子供たちに危害が及ぶ心配はないが、ここも、投票所に指定された公立学校だ。
……ネモラリス憂撃隊も、タブレット端末を手に入れたのか?
別の勢力か、愉快犯か。
情報は全く足りないが、最悪の事態を想定して、力ある民の同志が数人、アーテル共和国の小都市スピナに跳んだ。
爆弾も魔物の召喚も、力なき民のロークが現地入りしたところで、どうにもできない。
クロエーニィエ店長がどんな手段を使ったか知らないが、とにかく、ファーキルにヂオリートの犯行予告が伝わり、戦う力を持つ魔法使いの同志が現地入りしてくれた。
今は、彼らの成功を祈るしかない。
ロークはゆっくり深呼吸して、目の前の作業に集中する。
任された呪符は、住宅用の【魔除け】だ。以前は取扱いが少なかったが、移動放送局プラエテルミッサが定期購入する現在は、常備するようになった。
書き損じれば、やり直しがきかず、貴重な素材が無駄になる。掌に滲んだ汗を前掛けで拭い、銀のペンを握り直した。
ゲンティウス店長は、魔獣駆除業者が使う攻撃や防禦の呪符作りで忙しい。
……こんな時にダラダラ昼休み延ばすなんて。
ロークが早めに切り上げた分で相殺されたが、スキーヌムの甘さに苛立ちが募った。呪符作りに集中しようとすればする程、思考が雑念に囚われてしまう。
目を閉じて、深呼吸する。
素人のロークが日用品系の呪符を書けば、その分、【編む葦切】学派の術者ゲンティウス店長は、魔獣駆除業者などが使う戦闘用の呪符を多く作れる。それだけ助かる命が増えるのだ。
日用品系の呪符があれば、移動放送局プラエテルミッサや、ランテルナ島産まれの力なき民が助かる。
移動放送局が【魔除け】などの呪符で守られれば、それだけ安全に活動できるようになり、ネモラリス共和国各地の多様な人々に必要な情報を届けられるようになる。
事実を伝える正確な報道が、命と暮らしを支え、事業と雇用を守り、臨時政府とネミュス解放軍、難民キャンプと周辺国による支援、この戦争と国際社会を取り巻く状況と、これからどうすればいいか、考え、判断し、選択する材料になる。
一人の力は小さく、ひとつの行動だけ見れば、無力で無意味に思えても、それが別の誰かを支え、考えのヒントを与え、行動を促し、やがて大きな流れを作る可能性もある。
繋がりに思いを巡らせると、ざわついた心が少し落ち着いた。
ロークは目を開けて銀のペンを握り直し、一気に【魔除け】の呪符の続きを書き上げた。そっと横へ移動させ、次の羊皮紙を取る。
「ローク、何か気になるコトでもあんのか?」
ゲンティウス店長の気遣わしげな声で、ペン先にインクをつけた手が止まる。少し迷ったが、正直に答えた。
「犯行予告を受取りました」
「何ッ?」
緑色の眉を吊り上げ、呪符屋の店長が先を促す。
ロークが掻い摘んで事情を説明すると、ゲンティウス店長は銀のペンを置いて腕組みした。
「爆弾と【召喚布】か……フィアールカたちが動くにしても、場所の情報が陽動の嘘っぱちだったら、どうにもなんねぇな」
ネモラリス憂撃隊は、ロークたちの移動販売店が抜けた後、爆発物の扱いに長けた者が参加したらしい。
ルフス神学校の礼拝堂爆破テロは、ヂオリートの手引きがあったとは言え、あまりにも手際がよかった。
湖底ケーブル破断後の連続爆破と魔獣の出現も、どこまで関与したか不明だが、ロークには全く無関係とは思えない。
「例えば、もっと大きな街が本当の標的で、俺たちの妨害を防ぐ為に敢えて、俺に偽情報を流したってコトですか?」
「色んな可能性があるってこった。クロエーニィエさんの言う通り、お前さんに助けて欲しくて憂撃隊を裏切った線も、充分考えられる」
ロークは、陽動の可能性が高いと思ったが、口には出さなかった。
ゲンティウス店長が、ロークの書いた【魔除け】の呪符を摘み上げる。掌に乗せると、魔獣の消し炭を鶏の生き血と、水知樹の樹液で溶いた二種類のインクが、魔力を帯びて淡い真珠色の光を放った。
中心に描いた呪印から光が広がり、力ある言葉の文字をひとつずつ辿って隅々まで巡る。魔力が羊皮紙の呪符全体に行き渡ると、光が呪印に集束して消えた。
「そいつが助けを求めてる可能性に賭けるってんなら、装備整えて行っても構わんぞ」
「えッ?」
「どうせここに居ても、仕事が手につかんのだろ?」
緑髪の呪符職人がニヤリと笑う。
「ロークさーん、ちょっといいですかー?」
クラウストラの声だ。
「ほら、おいでなすった」
「いいんですか?」
「イヤなら無理強いせんが、みんなも色んな可能性を考えてるってこった」
ロークはゲンティウス店長の言葉に背中を押され、呪符屋のカウンターに出た。




