1691.夜の気晴らし
ラゾールニクは、レフレクシオ司祭の反応を意に介さず、説明を続ける。
「端末、動画と小説のデータ入れて、三日以内に返すよ」
「小説……ですか?」
寝間着姿の若手司祭が、怪訝な顔で問い返す。
「アーテルの若いコに人気の娯楽小説。外伝一本と一巻から三巻まで、共通語訳できたから、司祭様も辞書ナシで読めるよ」
「あぁ、例の小説ですね。恐れ入ります」
「次に会う時、動画と小説の感想聞かせて」
「いつ頃になりそうですか?」
首都ルフスの司祭館から、ランテルナ島の廃港へ連れ出されたレフレクシオ司祭が、恐る恐る聞く。
「来月半ばに大統領選やるみたいだし、しばらく忙しくなりそうだからなぁ」
「動画は三本とも二時間くらい、小説も文庫本四冊分あります。そんなに急ぎませんから、ゆっくりでいいですよ」
ファーキルが言うと、レフレクシオ司祭は頬を緩めた。
「当分、退屈しなさそうですね。有難うございます」
「司祭様でも退屈するんだ?」
ラゾールニクが物珍しげな目で無遠慮に言う。
「退院以来、一度もルフス光跡教会の敷地から出していただけないのですよ」
「えっ? じゃあ、アーテルの街の様子とか……」
ファーキルが、淋しげに笑う顔に聞くと、まだ二十代の司祭は溜め息混じりに応じた。
「テレビでしか見られません。司祭館の窓からも少し見えますが……」
「じゃあ、ちょっと散歩でもしてみる?」
「よろしいのですか?」
魔法使いの青年に軽いノリで言われ、流石のエリート司祭も面食らう。
「司祭様が眠くなきゃ、ちょっとくらい大丈夫だ」
魔法のテントから出ると、ラゾールニクは【灯】を掛けた小石を足下に置き、枯枝を拾って同じ術を掛けた。淡い光源がふたつになったが、効果範囲外の廃墟は闇に包まれ、なんとも心許ない。
ファーキルはテントを手早く畳んで筒状の袋に片付けた。
……散歩って言うか、ほぼ肝試しじゃないかな?
「廃墟の中は、魔物と雑妖の巣なんで、近付かないで下さいねー」
クラウストラが明るい声で注意を与えると、司祭は表情を引き締めた。
ファーキルはテントの袋を肩に掛け、【魔力の水晶】を握って呪文を唱える。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
レフレクシオ司祭が目を丸くした。
「あなたも魔法使いだったのですか?」
「力なき民ですけど、【水晶】があれば、【魔除け】とかは使えますよ」
「魔力の外部供給による一時的な魔法使い……ですか」
レフレクシオ司祭が、寝間着姿で難しい顔をして呟く。
ふたつの【灯】で照らされても、夜の廃港は不気味だ。
二車線道路を隔てた森から、いつ魔物や魔獣が現れるとも知れない。ファーキルは一刻も早く帰りたいが、司祭の気持ちもわかり、何も言えなかった。
「雑妖くらいは除けられるんで、イヤじゃなければ、念の為にどうぞ」
ファーキルは、真珠色の光に包まれた【魔力の水晶】を差し出した。レフレクシオ司祭が、ファーキルと【水晶】を見比べて気遣う。
「あなたは大丈夫なのですか?」
「手袋に似た効果があるんです」
呪印が刺繍された手袋を見せると、司祭は頷き、迷いなく【水晶】を手にした。
ラゾールニクが、ラキュス湖の方へ歩きながら言う。
「半世紀の内乱って知ってる?」
「端末に入れて下さった情報には目を通しました」
「話が早くて助かるよ。このランテルナ島は、南北のヴィエートフィ大橋でネーニア島とアーテル地方を繋ぐ交通の要衝だった」
「民族紛争の戦闘が激しかったのですね?」
「その通り。小さな漁師町や農村は全滅。カルダフストヴォー市と地下街チェルノクニージニクしか残らなかった」
「大都市だったから、ですか?」
司祭が、ラゾールニクの隣に並んで聞く。
クラウストラも、枯枝を拾って【灯】を点した。
ラゾールニクが、壊れた岸壁の手前で振り向く。
「チェルノクニージニクは、腥風樹に対抗する為に作られた要塞都市だ。どんな植物か、知ってる?」
「いえ」
ラゾールニクは、異界の植物との戦いの歴史を簡潔に語った。
ファーキルが以前、ここで呪医セプテントリオーから聞いた話と同じ内容だ。
「地下に築かれた要塞都市は……見ればわかるけど、床も通路も天井も全部、呪文や呪印がびっしりだ。【巣懸ける懸巣】学派の何種類もの防護の術を発動させるには、膨大な魔力が要る」
「つまり……堅固な地下都市には、キルクルス教徒が一人も居らず、空爆や毒ガスから守られたから、ですか?」
「ご名答。司祭様が聡明な人で助かるよ」
ラゾールニクは【灯】を点した枯枝を手に道路へ出た。
廃墟には小石の【灯】も転がるが、魔法使いから離れるのは心細い。ファーキルとレフレクシオ司祭は、小走りに追いついた。振り向いて、もう一本の【灯】を持つクラウストラの姿に安心する。
ラゾールニクは、車道の真ん中で足を止めた。
夜の森からは、得体の知れない生き物の声が幾つも重なって聞こえる。
木立の間から雑妖が滲み出し、アスファルトの道に流れたが、【魔除け】に阻まれ、ラゾールニクの周囲を避けて通る。
レフレクシオ司祭が、溶け崩れた生き物の残骸のような雑妖の流れを目で追う。森から滲み出たドブのような穢れの群は、南北に分かれて流れた。
「昔、道路より湖岸側には漁港の施設、こちら側には住宅街と商店街があった」
今は闇に包まれた森だ。
「内乱が始まった割と早い段階で焼討ちされて、生き残りは南のチェルノクニージニクか、北ヴィエートフィ大橋経由でネーニア島へ渡った」
「漁船を使わなかったのですか?」
「皆殺しが目的なら、真っ先に足を奪うよね。【跳躍】の術は知らないとこに行けないし」
焼失した漁師町の廃墟は、百年足らずで森に呑まれた。
一体どれだけの人々が、弔いもなくこの森で眠るのか。
……その時の遺体が扉になって、魔物が現れて、魔獣が居着いたのか。
誰からともなく、黙祷を捧げ、帰路に就いた。




