0173.暮しを捨てる
ファーキルは、起こしに来た母を寝たフリでやり過ごす。
中学生になってから、一度も父の見送りに行かなかった。
両親も「反抗期だから」とダメ元で聞くだけだ。母はいつも通り無理強いせず、すぐに引き下がった。
ファーキルは、ベッドの中で息を殺して二人が出て行くのを待った。
冬の朝は遅い。
外はまだ薄暗く、雀も目覚めない。
ひっそりと寝静まる街に玄関の開閉と戸締りの音が響いた。
ファーキルは念の為、五分間待ってベッドを出た。
着替えて、昨日用意した荷物を持つ。いつもの癖でタブレット端末を手に取り、慌てて充電器に戻した。
こんなものを持っていたら、GPSですぐに居場所を知られてしまう。
代わりに繁華街の路地裏で買った飛ばしの端末をベッド下の充電器ごと鞄に押し込んだ。
台所に降りると、母が書いたメモと、朝食が置いてあった。
トーストとサラダと目玉焼きを水で流し込んで戸棚を漁る。
非常食に買い置きしてある堅パンと缶詰を鞄に押し込み、家を出た。
薄曇りの空はようやく明るさを増し、目を覚ました雀が鳴き交わす。
白い息を吐き、ファーキルはマフラーを巻き直した。
新聞配達のバイクを見送ってバス停に向かう。
早朝の街は、人も車も疎らだ。見慣れた景色が知らない街に見える。
中学とは反対方向の停留所に着くと、すぐにバスが来た。
一日に朝夕二回だけ、純白の南ヴィエートフィ大橋を渡るバスが出る。
ファーキルはさりげなく乗り込んで整理券を取った。運転手の真後ろのシートに身を沈める。
車窓の景色が流れ、住み慣れた街といつもの暮らしが遠ざかる。ファーキルは、何の感慨もなくそれを見送った。
ヴィエートフィ大橋は、ランテルナ島を挟んで南北二本に分かれる。
ラキュス・ラクリマリス共和国時代に科学と魔法……両輪融和の象徴として建設された。
どちらも科学の土木・建築技術と【巣懸ける懸巣】学派の魔法で支えられ、自然災害や魔物の襲撃、船舶の衝突から守られる。
半世紀の内乱中に落とされたが、終戦直後に再建された。
遙か眼下に青い湖水が広がる。波は穏やかだ。
平和な頃は、スクートゥム王国と他の魔法文明国を行き交う貨物船が見られた。
今は、ラクリマリス王国による湖上封鎖で漁船の一隻もない。
ファーキルは、丘から湖を渡る船を眺めるのが好きだった。基地を飛び立つ爆撃機しか見えない今、このアーテル共和国には何の未練もない。
バスは何事もなく南ヴィエートフィ大橋を渡り、橋の袂の停留所で数少ない乗客を降ろした。
ランテルナ島から乗る客はなく、島の空気だけを積んで本土の車庫へ向かう。
日暮れまで、島と本土を繋ぐバスはない。
ファーキルは、Uターンして橋を渡るバスに背を向け、島の中心街に向かって歩きだした。
鞄のベルトが肩に食い込む。襷掛けにして大通りの歩道へ踏み出した。
ランテルナ島に降り立ってまず気付いたのは、電柱がないことだ。
アーテル本土の街は、街単位で小規模発電所があり、そこから各家庭やビルに送電する。
本土には、復興期に地中化した地区もあるが、ここは違う。送電網を巡らせる必要がないのだ。
道行く人々の服装も違う。
湖の民は、この時期にしては薄着だ。だが、その裾や袖には【魔除け】や【耐寒】などの呪文が見える。
魔術の知識がなければ、民族衣裳だと思うだろう。
刺繍や染織で色鮮やかだが、見る者の目を楽しませる為ではない。
発動させたい術の種類や強度によって、使用する色が異なるのだ。
力なき民のように性別で衣服の色や形を変えることもない。
男女共に季節を通して露出度が低く、簡素で動きやすい服を着る。服の色柄は付与した術による。
この島では……いや、魔法文明圏の衣服は「身を飾るもの」ではなく、寒暑や魔物などから身を守る「防具」なのだ。
ファーキルは、標識の住所表示を確認しながらゆっくり歩いた。
早朝だが、人通りは多い。
道行く者は、ファーキルと同じ陸の民もいれば、緑髪の湖の民もいる。
湖の民は、僅かな例外を除いてほぼ全員が魔法使いだ。
陸の民は、ファーキルが思うよりずっと力なき民が多いらしい。お蔭で、呪文のないただの服でも浮かずに済んだ。
事前にネットで調べた情報では、ビルや一部の集合住宅では、力なき民の為に自家発電で電力を供給すると言う。
発電機のある建物には、無線LANやWi-Fiもある。
ファーキルは目当てのビルをみつけ、地下への階段を下りた。
地上部は、飲食店や雑貨屋が入居する三階建ての雑居ビルだ。




