1668.職人の後継者
四月半ばを過ぎる頃には、第二巻の清書も緑髪の運び屋に渡り、第三巻の翻訳もほぼ終わった。
クフシーンカは第三巻の校正、学生たちは外伝の共通語訳に忙しい。
「忙しくても、毎日ウチに籠ってちゃ、却って能率が落ちるってモンですよ」
新聞屋の亭主が、集金のついでだからと、数日置きにクフシーンカを連れ出してくれる。ワゴン車の窓から春の街を見ると、気分転換になった。
シーニー緑地の若草は丈が伸び、毒のせいで摘まれずに済んだ花々に蝶や蜂が舞う。仮設住宅の植木鉢などには、野菜の芽が出た。
ゆるく吹く風が、花の香を運ぶ。
リストヴァー自治区東部は、数年前のバラック街からは想像もつかない程、様子が変わった。息が詰まるようなドブの臭いはもうない。
炎に呑まれた犠牲者の数さえ把握できず、放火を指示した星の標リストヴァー支部長は、まだ区長の座に在る。
ネミュス解放軍が、区長を殺さなかったのは、利用価値があるからに過ぎない。末端戦闘員の多くは、ウヌク・エルハイア将軍が駆け付ける前に解放軍と鉢合わせした戦闘で、死亡した。
信賞必罰からかけ離れた状態だが、現在のリストヴァー自治区はまだ、区長選など実施する余裕がない。
「いつも有難うね」
「それじゃ、また後で」
新聞屋は、クフシーンカを東教会で降ろし、仮設住宅へ集金に向かった。
気持ちを切替え、礼拝堂に入る。食品の仮設工場と商店街に働き口が増え、教会で手仕事をする者は、やや減った。だが、まだまだ寄付頼みで暮らす者は多い。
数人が、星道の職人クフシーンカに気付いて挨拶した。
応えた声で、顔を上げた者たちが、振り向いて微笑む。
クフシーンカは、礼拝堂の入口付近の席で作業する中年女性に声を掛けた。
「アメンツムさん、こんにちは。どう? 調子は?」
「店長さん……どうもこうも、やっぱり刺繍ってのは難しいモンですねぇ」
四十代半ばの女性の手には、子供用のワンピースがある。以前、裾や袖に補強と装飾を兼ね、クロスステッチを入れるよう指示したものだ。
アメンツムが広げた裾は、縫い目が不揃いで途中から斜めに逸れ、思い出したような急角度で裾へ戻り、あまり補強の用を成さなかった。
クフシーンカが、説明しながら縫った見本との差が、アメンツムの技術力の低さを際立たせる。
「だんだん縫い目の大きさが揃っていますし、初めて刺繍したとは思えない上達ぶりよ」
「でも、私は遅い上にこのザマで、材料が勿体ないですよ。やっぱり若い人たちの方が飲み込みが早くて」
アメンツムは、縫いかけの子供服をくしゃりと握った。
「すみませんけど、あのお話、なかったコトにしていただけませんか?」
「そう……無理にお願いはできないけれど、もし、気が変わったら、いつでも教えてちょうだいね」
「すみません。私より、ナカレーンニクさんの方が、ずっと上手ですよ」
アメンツムは目を伏せたが、すぐ顔を上げ、少し離れた席で作業する中年男性を視線で示した。
自分の名が聞こえたのか、振り向いた彼と目が合って互いに会釈する。
「こんにちは。拝見してよろしいかしら?」
「へ、へぇ、あんまり、まだ、その、アレでやすが」
おっかなびっくり、縫いかけのズボンを星道の職人に差し出す。
彼にも、アメンツムと同じ課題を与えた。多少、歪ではあるが、縫い目が大きく逸れることはなく、充分、補強の用を成す。クフシーンカは目を瞠った。
「ほんの少しの説明で、もうこんなに上達するなんて」
「目の前で実演してもらえたからッスよ。あの本、図はいっぱいありやしたけどね、どうも俺にゃ難しい字が多くていけねぇ」
「刺繍は、型紙通りに刺すだけなのだけれど」
「本式の聖典は、共通語なんスよね?」
「えぇ……そう言えば、識字教室。司祭様が掛け合って下さって、小学校の空き教室を使わせてもらえるようになったそうよ」
ナカレーンニクの眉が下がる。
「そいつぁイイ話でやすが、アレだ。湖南語の稽古なんスよね?」
「共通語も、別の時間に教えてくれるそうよ」
「新聞で勉強するんスよね?」
「新聞を基に教材を作るようなことを聞いたけれど、詳しくは知らないのよ」
ナカレーンニクの顔から不安が消えない。
「勉強がモノんなんなかったら、そん時ゃ……すんません」
「いいのよ。焦らなくて。技術も語学も、しっかり身に着けるのが肝心なのですからね」
「若いコの方が、覚えがいいンじゃねぇっスか?」
あの冬の大火で負った火傷が元で足を悪くした彼が、背中を丸めて作業する女性に顎をしゃくる。
ニトカは冬の間、他の者に編み物を教える傍ら、セーターなどを巧みに編んだ。ナカレーンニクより少し若いが、どちらも三十代で、そんなに変わらない。
今日の彼女は、編み針と毛糸ではなく、刺繍用の針と糸を相手に四苦八苦する。
クフシーンカが声を掛けると、ビクリと身を竦ませた。
「ニトカさ」
「あぁ、いえいえ、あぁもうこんなの、星道の職人の方にお見せできるアレじゃないんで、すみません!」
ニトカはクフシーンカを遮り、縫いかけの服を隠した。
「初めてなのだから、上手くできなくても怒ったりなんてしないわ」
「あの、でも、私……」
「こんなになるまで、投げ出さずに頑張ってくれたのね」
クフシーンカの皺深い手が、ニトカの傷だらけの手をそっと包む。
「困難に怯まず、努力を続けたニトカの道を知の灯が照らしますように」
ニトカは唇を震わせ、声もなく泣き崩れた。
先日、縫い方を教えた際、彼女は難なく教えた通りにこなした。クフシーンカが何気なく掛けた「やっぱり私が見込んだ通り、筋がいいわね。期待してるわ」の一言が、重圧となって彼女を押し潰してしまったのだ。
手が緊張で萎縮し、思うように動かなくなったのだろう。
ニトカにとって、星道の職人後継候補の一人としてクフシーンカに選ばれたことは、重過ぎたのかもしれない。
……申し訳ないことをしてしまったわね。
クフシーンカは、ニトカが落ち着くまで肩を抱いて、背中を撫で続けた。
残る後継者候補のアルバとムリニェの姿はなかった。
「頑張ってくれて有難うね」
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
クフシーンカは、ニトカからそっと身を離し、教会の集会室に顔を出した。
☆仮設住宅の植木鉢など……土集め「419.次の救済事業」「442.未来に続く道」「453.役割それぞれ」、栽培開始「0991.古く新しい道」「1578.炊事場の視察」参照
☆炎に呑まれた犠牲者……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」「0212.自治区の様子」~「0214.老いた姉と弟」参照
☆放火を指示した星の標リストヴァー支部長……「0161.議員と外交官」参照
☆ウヌク・エルハイア将軍が駆け付ける前に解放軍と鉢合わせした戦闘……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照
☆ネミュス解放軍が、区長を殺さなかった……「919.区長との対面」~「921.一致する利害」「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」「0941.双方向の風を」~「0943.これから大変」参照
☆リストヴァー自治区はまだ、区長選など実施する余裕がない……「1504.陸の民の候補」参照
☆食品の仮設工場……「1453.仮設工場計画」「1454.職場環境整備」「1573.中級の技術者」参照
☆商店街……「1491.連鎖する幸せ」参照
☆あのお話/あの本/星道の職人後継候補……「1574.教えを引継ぐ」~「1576.消息を明かす」参照
☆識字教室……「1577.大人への教育」「1578.炊事場の視察」参照




