1667.駆け足の翻訳
学生たちの働きは目覚ましく、クフシーンカが思ったより早く、一冊目の翻訳が終わった。
クフシーンカは、緑髪の運び屋が追加した共通語の辞書を片手に校正する。
香草茶で少しずつ口を湿しながら、自宅で一人、心を落ち着けて学生たちの素訳に目を通した。
科学技術に関する記述はわからない部分が多いが、取敢えず、共通語の表現として不自然な箇所や、明らかな語訳に赤ペンを入れる。
……あら、これ、ホントに若いコ向けの信仰のお話なのね。
派手な表紙に目を奪われてしまったが、内容は、アーテル共和国内で起こり得るであろう信仰の矛盾に起因する社会問題を考えさせるものだ。
無自覚な力ある民の存在や、彼らが自らの魔力に気付いた際の苦悩。
我が子が力ある民だと気付いた両親の苦悩、子殺し、母子の火炙り。
魔力の有無と信仰によって引き裂かれる家族や友人、恋人らの苦悩。
力ある民への迫害、ランテルナ島への追放、島産まれの者への差別。
作中で語られる出来事は、いずれも、アーテル共和国で実際に起きた事かもしれない。作者アル・ファルドの筆は、ネモラリス共和国のリストヴァー自治区で暮らす老女クフシーンカにそう思わせる程、真に迫ったものだった。
「こんにちはー」
大工の娘だ。クフシーンカは、校正済みのレポート用紙をクリップで束ね、玄関に顔を出した。
「こんにちは。これ、今日の分。清書お願いね」
「はい。みんな、お菓子すっごく喜んでて、古新聞を訳すより楽しいし、続きもしたいねって言ってるんです」
「あらあら、熱心ねぇ。私も色々と勉強になって楽しんでるわ」
「それじゃ、清書してまた来ますね」
玄関先で応対を済ませ、杖に縋って台所へ戻る。
運び屋には、大工の娘がタイプライターで清書したものを渡す手筈だ。
向うで「ぱそこん」とやらで打ち直し、科学技術やインターネットに関する部分の修正も行うと言う。
食卓には、湖南語の原文、学生の手による素訳のレポート用紙、共通語の辞書を広げてあり、食事をする場所もない。
近頃は救援物資の介護食を温め直すだけで、すっかり料理をしなくなった。
……でも、何とかして間に合わせなくてはね。
アーテル共和国の大統領選挙本選は、来月に迫る。
バルバツム連邦の出版社が、同国で小説「冒険者カクタケア」シリーズの電子書籍を刊行することになった。
アーテル共和国の若者に人気の小説は、バルバツム連邦の者たちにどう受け止められるだろう。連邦には仕事や留学、戦争からの避難で、アーテル人も居住する。
アーテルの選挙に直接は影響しないだろうが、ラキュス湖畔の様子をバルバツム連邦のキルクルス教徒に届けたかった。
お茶の時間が過ぎる頃、廊下の奥に緑髪の運び屋が現れた。
何の前触れもなく、忽然と姿を現すのは、いつものことだ。
運び屋は、廊下を見回して言った。
「掃除くらい、手伝うわよ」
「最近すっかり目が疎くなってしまって、行き届かなくてごめんなさいね」
「別に責めてるワケじゃないのよ。何かと大変でしょうし、魔法でもよければ、掃除くらいお安いご用よ」
湖の民フィアールカは、キルクルス教徒のクフシーンカに屈託のない笑顔を向けた。
「あなたの負担にならないなら、お願いしてよろしいかしら?」
「任せて。外から見えないとこだけ、こっそりするわ」
運び屋は、肩掛け鞄から掌にすっぽり収まる小瓶を出した。
彼女が蓋を開けて何事か囁くと、瓶の口から大量の水が溢れ出す。浴槽一杯分はあるだろうか。
クフシーンカが見守る中、水塊が生き物のように壁を這い上がった。天井を流れて床に降り、細かな埃などを溶かし込んでゆく。
廊下を一通り流れた水が、戸を開け放った奥の部屋へ走り、壁から天井へ這い上がった。運び屋が少し遅れて部屋へ入る。しばらくして、元の透明感を取り戻した水を従え、廊下に出て来た。
照明は変わらないのに廊下が随分、明るく見える。
……そう言えば、天井の煤払いなんて、何年振りかしらね。
「ついでだし、戸を開けてくれたら、他の部屋もするけど?」
「それじゃあ、お忙しいとこ申し訳ないけれど、お言葉に甘えようかしらね」
クフシーンカは杖をついて台所を出た。客間、書斎、寝室など、順に開けて回る。大火の年の罹災者支援事業に供出し、大半の部屋は空っぽだ。
灰色にくすんだ絨緞が、元の色を取り戻す。
代わりに水が埃を取り込んで、灰色に濁る。
「こんなに汚れてたなんて……どうして今まで気付かなかったのかしらね」
我ながら、よく雑妖を涌かさなかったものだと呆れる。
緑髪の運び屋が力ある言葉で命じると、汚水は屑籠に汚れを吐き出し、元の清水に戻った。フィアールカの一言で、大量の水がするりと小瓶に収まる。
「毎日見てると、却って気付かないコトって多いのよ」
「……そうね。こんなにキレイにして下さって、有難うございます」
「いいのよ、このくらい。いつもお世話になってるし、お互い様よ」
クフシーンカはもう一度礼を言い、お茶を淹れる。ティーセットを持って、寝室へ移動した。
「はい、これ。写し終わったから返すわね」
運び屋が、分厚い封筒を何通も木箱に積み上げる。
学生たちとクフシーンカが、湖南語から共通語に翻訳した小説「冒険者カクタケア」の第一巻だ。
改めて厚みを見ると、よくぞこんな短期間でできたものだと感心する。
「機械やインターネットの記述を中心に見直して、できたとこから順番にメールで出版社へ送ってるから、早ければ、第一巻は五月初旬には出せるんじゃないかって、バルバツムの同志が言ってたわ」
「そんなに早く出せるんですの?」
「印刷の工程がないし、電子書籍を載せる場所はもうあるから、中身さえ揃ったら、すぐだそうよ」
「本当に何から何まで……」
「私も、ここがどんな土地か、共通語圏のキルクルス教徒に知ってもらいたいだけだから、気にしないで」
緑髪の運び屋は、お茶を飲むとすぐ、魔法で姿を消した。
☆学生たちの翻訳……「1483.出版社に依頼」~「1485.文化の影響力」「1571.内緒のお勉強」「1572.今は菓子の為」参照
☆若いコ向けの信仰のお話/派手な表紙……「1132.事実より強く」「1165.小説のまとめ」参照
☆大火の年の罹災者支援事業に供出……「420.道を清めよう」参照
☆バルバツムの同志……「1483.出版社に依頼」参照




