1649.菓子生地生産
荷台に一歩足を踏み入れると、甘い匂いに圧倒された。
卵の殻だけが詰まったゴミ袋の隣には、空の厚紙製卵ケース、見たことのない絵が付いた小麦粉の大袋と砂糖の袋、業務用サイズのバターの箱やアーモンド粉の袋まであって、足の踏み場もない。
レノとピナティフィダは泡立て器を片手にボウルと格闘し、アマナとエランティスはクッキー生地を捏ねる。四人とも袖捲りをして、汗だくだ。
「ただいまー……何を手伝えばいい?」
「あ、クルィーロ、おかえり。ちょっと【癒しの風】謳ってくれないか?」
「えっ?」
レノは疲れ切った顔に弱々しい笑みを浮かべ、一瞬だけこちらを見たが、すぐ白く泡立つボウルに視線を落とした。
「それ、代わんなくていいのか?」
「ケーキとかの生地は、慣れてないと卵の泡が潰れたり、粉がダマになったりするから、血マメ治してくれる方が助かるよ」
「えっ? 血マメ? わ、わかった」
クルィーロは荷台の入口で背筋を伸ばし、力ある言葉に魔力を乗せて呪歌【癒しの風】を謳った。
一体、幾つ作れと言われたのか。
レノの向こうには、平和な頃のパン屋で見たのと似た浅い木箱が、幾つも積み上がる。粉類の袋は、もうどれもぺたんこで、生卵も使い切ったらしい。
クルィーロは甘い香りにむせそうになりながら、どうにかとちらず、軽い外傷を癒す呪歌を一通り謳い終えた。
「どうだ? 治った?」
「大分マシになったよ。ありがと。もう一回、謳ってから、片付けを手伝ってくれないか?」
「あ、あぁ、勿論いいけど、ホントにそれ、手伝わなくて大丈夫か?」
「もうすぐ終わるから」
レノは卵白を泡立て器で混ぜる手を止めずに言う。
アマナが、寝かせ終えた生地のラップを剥がし、麺棒で平たくしながら言う。
「焼くのは、お屋敷で【炉盤】のオーブンを貸してくれるって」
「えっ? そこんちの台所、生地作るとこから使わせてくんないの?」
「今日は魔獣のお肉を処理するのに忙しいから、無理って」
「なんだそりゃ?」
クルィーロは、それなら菓子作りを延期すればよかったのにと思ったが、終わりかけの作業を前にして、言葉を飲み込んだ。
「魔獣のお肉を処理できる台所が、お屋敷とお肉屋さんと狩人さんちしかないんだって」
「えっ? 何でお肉屋さんがしないんだ? 本職なのに?」
「お肉屋さんは、双子が他の職人さんたちと一緒に連れてったって言ってた」
アマナが作業しながら答える。
「え? でも、狩人さんちでもいいんだろ?」
「狩人さんが朝イチで蔓草採りに行って、魔獣と鉢合わせして、おっきい跳び縞三匹も獲って来たの」
跳び縞は、濃い緑と薄茶色の縦縞が特徴的な二足歩行の魔獣だ。頭には曲がった角が生え、一跳びで民家一軒飛び越す程の跳躍力を持つ。
草食で臆病だが、穀物の葉や茎、葉物野菜を食害する農家の敵だ。
アマナが、平たく伸ばした生地を幼馴染に渡す。エランティスは、色違いの生地を重ねてくるくる丸めた。
手が空いたアマナは、紙製の製菓カップを木箱に並べ始める。
「狩人さんは、野菜の収穫籠にする蔓を採るから、魔獣のお肉は全部お屋敷に預けて、また森へ行って……お兄ちゃん、呪歌は?」
「あ、あぁ、謳う謳う」
レノとピナティフィダは、泡立て器を篩に持ち替え、先に量っておいた粉を篩い始めた。
エランティスが生地を均等な厚みに切り、アマナはクッキングシートを敷いた木箱に渦巻き模様のクッキー生地を並べる。
クルィーロは大きく息を吸い込んで、もう一度【癒しの風】を謳った。
「クルィーロさん、有難う。ホラ、こんなキレイに治ったよ」
篩を置いたピナティフィダが、掌をクルィーロに向けて微笑む。
元がどんな酷い血マメか見なかったが、クルィーロはホッとして、アマナとエランティスの片付けを手伝った。
……クレーヴェルに肉屋さん連れてって、どうするんだ? 戦える人なのか?
疑問を脇に置き、使い終えた調理器具を【操水】で洗う。
奥の係員室にまで、生地を詰めた木箱が幾つも積んであるのが見えた。このままでは、今夜の寝場所がない。
クルィーロが見ただけでも、クッキーとマドレーヌ、カップケーキ、三種類もある。いつもの物販は、生卵が日持ちしないので、卵黄を使わないクッキーだけだ。
アマナたちの片付けが終わる頃、レノとピナティフィダも、ケーキ生地を紙製の型に流し終えた。
「ケーキ作ンの、血マメとかできるくらい大変だなんて知らなかったよ」
「趣味で作る人も居るけど、プロの店がいっぱいあんの、わかったろ?」
レノが肩の荷が下りた顔で微笑み、クルィーロはしみじみ頷き返した。
「うん。大変だよな」
クルィーロは、ドーシチ市の屋敷で食べた焼き菓子を思い出した。額の汗を拭って片付けを始めたレノとピナティフィダが、眩しく見える。
……ってコトは、お屋敷の奥様って、お菓子作ったコトないのか。
一度でも作った経験があれば、こちらの人員や器具などの体制に頓着しない大量発注などしない筈だ。労力を知った上で、いきなり発注したなら、例の双子の親らしいイヤな性格を垣間見た思いがする。
地元民のアーラは「おやさしい奥様」と評したが、他所者には当たりがキツいのかもしれない。
……いやいや、会う前に決めつけてどうすんだよ。
そもそも、そんな上流階級の夫人が、夫の不在に他所者の陸の民と面会するだけでも、葬儀屋アゴーニの言う通り、凄いコトなのだろう。
クルィーロは、噂や他人の評価で芽生えかけた先入観を握り潰して、片付けを手伝った。
☆呪歌【癒しの風】……「348.詩の募集開始」「349.呪歌癒しの風」参照
☆お肉屋さん……仕事の一例「718.肉屋のお仕事」参照
☆跳び縞……「385.生き延びる力」参照
☆ドーシチ市の屋敷で食べた焼き菓子……「0246.部屋割の相談」「264.理由を語る者」参照




