1638.ちいさきモノ
人の気配がする。
接近を認識した直後、身体の一部をつままれ、全身が宙に浮いた。
つままれた感触がなくなる。同時に身体の下部でぬくもりを感じた。
間近に男の顔がある。
見覚えがある気がしたが、思い出せない。
盛夏の秦皮を思わせる緑髪に緑の瞳。若者と中年の中間くらいの微妙な年齢に見えた。白衣の襟には、青糸で呪印を刺繍してある。
……誰だ?
声が出ない。
男の口が動き、知らない声が耳に届く。
「あっ、もしかして、寝てた?」
「それが睡眠をとるのですか?」
「記録には偶に寝るってあった」
見えない位置からの問いに答える声は親しげだ。
「偶にですか? 頻度や条件はどのようなものですか?」
「不明。なんせ向うの研究所から回収できた資料が少ないからね」
「調べるにしても、こう真っ黒で目鼻もないのでは……覚醒と入眠をどう見分ければよいのでしょう?」
「脳波計とかが使えなくて、科学的な手段ではムリってのがわかったよ」
「過去の研究では、どのような手段を用いたか、ご存知ですしょうか?」
「契約者には、感覚的にわかるし、寝ろって命令すれば、寝るらしいよ」
男の横顔が曖昧な笑みに変わる。
質問者が、息を呑む気配がした。
「そのような命令が、可能なのですか?」
「この世の生き物や、魔物相手に【使い魔の契約】を結んだ場合、生理現象までは支配できない。この魔法生物特有の……仕様だろうね」
「魔法生物は基本的に睡眠が不要ですが、何故、敢えて、そのような機能を付与したのでしょう?」
質問する男の声は、答える男よりずっと年上のようだ。
身体の位置が下がり、下部だけでなく、側面にもぬくもりを感じる。白衣の胸が呼吸に合わせて動き、声の響きが身体全体を心地よく揺らす。
「なんせ、最初の研究所はコイツの暴走で破壊されて、研究資料を殆ど回収できなかったらしいから、ひとつずつ調べ直すしかない」
「確かに左様でございますが、【使い魔の契約】を禁じられたのでは、進捗が」
見上げても、髭剃り跡が青く残る顎の裏しか見えない。
不安に駆られ、身震いした。
「ん? どうしたんだ?」
やさしい声と共に顔がこちらを向く。案じてくれる穏やかな視線を受けた途端、不安が氷解した。白衣に身を寄せ、声の主の鼓動を全身で感じる。
「よしよし」
やさしい声と共に指がやわらかな身を撫でる。
喜びで緊張が解け、全身がとろりと脱力した。
「契約しなくても、わかるコトは色々ある。まずは手を尽くそう」
「現在も、戦争は継続中なのですが……」
「だからだよ。研究員が契約者になったら、その人が前線に出る羽目になる。契約者が死なない限り、変えられないんだから、許された条件の中で頑張るしかないんだ」
「……恐れ入ります」
話の内容は不穏だが、白衣越しに響く彼の声が心地よく、だんだんどうでもよくなってきた。
「例えばこれ。人に懐く機能」
「懐くのですか? これが?」
年配の男性の声は半信半疑だ。
「やさしく接してやれば、人間の個体を識別し、契約者以外にも懐き、攻撃性を示さない」
「元が雑妖の掃除用ですから、人間に対する攻撃性はない筈です」
「そう思うだろう? でも、違うんだ」
「と、おっしゃいますと?」
会話の内容が右から左へ抜けてゆく。
「人間側が嫌悪感を露わにして接したり、酷いコトをすれば、その場合も人間の個体を識別して、攻撃性を示すようになる」
「なんと……」
「学習能力があるんだよ」
誇らしげに言われ、喜びに身が震えた。
「よく知る為には、もっと仲良くならないと。……可愛がってあげて」
「研究班全員にお伝え致します」
ノックの音で、ルベルは目を開けた。
斜めに射し込んだ日が、基地の天井をくっきり色分けする。
「ルベルさん、お加減いかがですか? 食べられそうですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
急いで起き上り、個室の戸を開ける。
リハビリの補助員だ。
ワゴンには五人分の夕飯がある。ルベル以外にもリハビリ中の兵が居るのだ。
「今朝から三時過ぎまで窓辺に座って、それから部屋を二周したんで……」
「一人であんまり無理しないで下さいよ」
リハビリ補助員は苦笑して、ワゴンを部屋へ入れた。
お盆を書き物机に置き、【操水】でスープを入れる。既に一人で食べられる状態に回復したルベルを椅子に座らせ、他の部屋へ急いだ。
……俺が食べても、魔哮砲の餌は雑妖なんだよな。
ルベルは、口に含んだスープを美味いと思うが、魔哮砲はどうだろう。
そもそも、味覚があるのか。
食べながら、先程の夢を思い返す。
今回は、湖の民と話し相手の声がはっきり聞こえた。
内容を思い出そうとするが、掌から水がこぼれるように掴みどころがなく、思い出そうとすればする程、記憶が溶け崩れて消えてしまう。
……魔哮砲の記憶力って、どのくらいあるんだ?
夢で見た研究員らしき男は、学習能力があると言った。学習能力があるなら、記憶もそれなりに残るだろう。
魔哮砲の記憶の断片なのか、食い千切られた魔哮砲の断片がどこかで生存し、現在、見たものなのか。それとも、ルベルが魔哮砲と会いたいと思うあまり、願望が表れたタダの夢に過ぎないのか。
現在か。
過去か。
単なる夢か。
研究員の服装からは、時代がわからない。部屋の様子は、研究員の声とぬくもりに夢中で、壁の白っぽさしか思い出せなかった。
更に一週間リハビリを重ね、報告書を読み終える頃、見計らったようにラズートチク少尉が部屋を訪れた。
「日常動作に支障ない程度に回復したと聞いた」
「はい。お待たせ致しました」
「早速だが、三日後、ラニスタ共和国に潜入する」
「了解」
一介の魔装兵でしかないルベルには、逆らうことなどできなかった。
☆【使い魔の契約】……「776.使い魔の契約」参照




