1629.支配者の命令
サル・ガズが足を止めて振り返る。
部隊は彼を中心に散開し、周囲を警戒する。
ザパースは、何度か父に連れて行かれた魔獣狩りの現場を思い出した。
「ご婦人、昨夜のラジオは聞いたか?」
「は、はい。あの、その子は……」
「この者は狩人の息子で【飛翔する鷹】学派の使い手だ。今は少しでも戦力が欲しい。連れ行くぞ」
「あ、あの、その子は大人しい子で、戦いなんて、そんな……」
下宿の大家さんが、必死に食い下がる。
「魔獣狩りではこの者も【鎧】を纏い、何度も生きて帰った。だからこそ、今もここに居るのだ」
「えぇッ? そんなまさか」
大家さんが視線でザパースに確認を求めた。
サル・ガズに手首を掴まれたザパースは逃げられない。嘘を吐けば殺されるかもしれないとの恐怖で、小さく顎を引いた。
大家さんの老いで弛んだ瞼が持ち上がり、サル・ガズに顔を向ける。
「この者は三男で、跡継ぎではないが、十三歳になってからは何度も魔獣狩りに参加した。この者がクレーヴェルで建築を学びたいと言った時、偏狭なサル・ウルは反対したが、私は別の技術を学ぶのも悪くないと思い、許可と学費を出してやったのだ」
サル・ガズが、初対面の庶民に嘘偽りなく、きちんと事情を説明した。ザパースは意外に思いながら、半ば他人事のような諦めを抱いて二人の遣り取りを見守る。
大家さんは、どこか遠くから爆発音が届く度にビクリと身を竦ませるが、下宿のみんなが居る食堂へ引っ込まず、玄関で頑張ってくれる。
「私はこの下宿の大家です。その子を無事に親御さんの許へお返しする責任があります」
「大した職業倫理だ。褒めてつかわす」
大家さんは面食らい、鷹揚に笑うサル・ウルを頭のてっぺんから爪先までジロジロ眺めた。
外見は二十代前半くらいだが、半世紀の内乱が始まる少し前に生まれた長命人種で、大家さんより少し年上だ。
ザパースより頭ひとつ分背が高く、がっしりした体格と自信に満ちた態度は、ただそこに居るだけで見る者を圧倒する。
今は様々な防禦の呪文と呪印が赤い糸で刺繍された【鎧】を纏い、腰に長剣を佩く。首から提げた徽章は魔法戦士の証【急降下する鷲】学派。彼が何者か知らない者でも、逆らおうなどとは思わないだろう。
だが、大家さんは震えながらも、ザパースの為に引き留めた。
下宿人は他人だ。それでも、命懸けで助けようとしてくれる。
ザパースは両足でしっかり道を踏みしめ、腹に力を入れて声を出した。
「あ、あのっ、サル・ガズ様」
「何だ?」
向けられた緑の瞳に怒りの色はないが、村の支配者と目が合った瞬間、ザパースは胃がきゅっとした。
「僕は……し、市街戦の経験がありません」
「森で魔獣相手に戦う方が難易度は上だぞ」
「人間を相手にた……たた……たっ戦う訓練も……ぜっ全然」
「畏れながら、サル・ガズ様。この少年の様子、多少【飛翔する鷹】の心得があろうとも、前線に投入すれば必ずや、足手纏いになりましょうぞ」
静かだが、よく通る声が割り込む。年配の魔法戦士だ。
言葉通り、邪魔にしかならない素人の参入を戦術上の理由で防ぎたいのか。怯えるザパースが可哀想になり、見兼ねて助けてくれたのか。
巌のような顔は表情が乏しく、意図はわからなかった。
サル・ガズは彼への信頼が厚いのか、話の腰を折られても怒らなかった。逃げ腰になるザパースの手首を引き寄せ、滔々と捲し立てる。
「昨夜、ラジオで流した声明の通り、この国を秦皮の枝党などと言う民草共の手に委ねてはならない。奴らは他の多くの民を欺き、密かに魔法生物の兵器利用を進めてきた。アーテルのキルクルス教徒共が、どのような手段で情報を得たか不明だが、魔哮砲こそが、戦争の原因だ」
ザパースと大家さんが、勢いにつられて思わず頷く。
「ラクリマリス政府が証拠を突きつけても、奴らは黙して語らぬ。残念なコトにアル・ジャディ・ラキュス・ネーニア将軍ともあろうお方が、そんな政治家に与しておるのだ。わかるか? 森番の子ザパースよ」
「わかりません……難しくて」
消え入りそうな声で答えると、サル・ガズは鼻を鳴らした。
「では、教えてやろう。ラキュス・ネーニア家の手に権力を取り戻さねば、この国が……いや、ラキュス湖が干上がり、周辺の国々も全て滅ぶ。影響が湖北地方のムルティフローラ王国まで及べば、最悪の場合、三界の魔物の封印が解ける」
「ッ……そんな……」
「民主主義などと言うものを押し付けたキルクルス教徒共には、それがわからんのだ。そもそも、ほんの数年の任期付きで、一時的に権力を付与されただけに過ぎぬ民草風情が、我らラキュス・ネーニア家の者や、ラクリマリス王家の者と同等の責務を果たせる筈がなかろう」
大家さんの息を呑む音が、ザパースの耳まで届いた。
戦闘の破壊音が次第に大きくなる。
サル・ガズは、ザパースから手を放した。
「ザパース。お前には呪符作りをさせてやろう。決心がついたら、東地区朝霧通のパニセア・ユニ・フローラ神殿へ行き、ウシェールィエ神官に言え」
一方的に言って爆音のする方へ駆けてゆく。部隊の者たちも後に続いた。
年配の魔法戦士は彼らを見送り、ザパースの肩に分厚い掌を乗せて言う。
「少年よ。故郷へ帰れ」
返事を待たず、踵を返して部隊を追う。
彼らの姿が見えなくなっても、ザパースの肩には、魔法戦士の手の重みとぬくもりが残った。
「お兄ちゃん、その神殿……行ったの?」
ピナの妹が聞くと、ザパースは勢いよく首を横に振った。
「場所を知らないし、知ってても……人殺しの手伝いなんて……」
ザパースが眼鏡を外して涙を拭い、レフラーツスがその背をさする。
「正直……うちに帰るのも、サル・ガズ様に怒られるかもって怖かったんです。でも、帰ったら、隠れキルクルス教徒狩りの件でウヌク・エルハイア将軍からお叱りを受けて、クレーヴェルのどこかに閉じ込められてるって聞いてホッとして」
ザパースは眼鏡を握って俯いたまま、一気に言葉を吐き出した。




