1623.隣近所の被害
レフラーツスと下宿のみんなは、約一カ月ぶりに地下室から地上の家へ出た。
下宿屋の新聞受けと郵便受けは空っぽだ。
玄関の扉を開けた三人の大学生とレフラーツスは、久し振りに風を感じた喜びが吹き飛び、下宿屋の亭主が暗い顔をした理由を一目で理解した。
向いの家が瓦礫の山に変わり、屋根が何色だったかさえ思い出せない。平和な日々の記憶が、一瞬で惨状に塗りかえられた。
久し振りに見上げた空は抜けるような青だが、吹き渡る風に乗って、焦げた臭いがどの方向からも届く。
向いの街区には家の残骸が何棟もあるが、下宿がある街区は、ほぼ無傷だ。
「あっち側は、力なき民が多かったんだろうな」
黒髪の大学生がポツリと言った。
家屋には建設時に【巣懸ける懸巣】学派の各種防護の術が組込まれる。
力なき民は、家を守る術を発動するのに【魔力の水晶】か、サファイアなどの魔力を蓄えられる宝石類が必要だ。持続時間は、高くつく割に自前の魔力と比べると短い。クーデターの戦闘で【魔力の水晶】を充填できなかったのかもしれない。
道の瓦礫はすっかり片付けられ、勤め人たちが足早に通り過ぎた。子供の姿はなく、遊ぶ声もない。雀の囀りだけがやけに耳についた。
ヘシ折れた庭木は、途中から刃物で切られて短い。力なき民の生存者が、薪にしたのかもしれない。
目を凝らすと、陸の民の服はみんな、呪文や呪印がある。
この時は、力なき民は停戦時間でも危なくて外出できないか、早々に神殿へ避難したから姿を見ないのだと思った。
「でも、違いました」
徽章を持つ高校生レフラーツスは、重い息を長机に吐き出して俯いた。震える手で紙コップを取り、顔に近付けて深呼吸を繰り返す。
鎮花茶を一口含み、震えが治まった手で置いた。
「今から言うコト、村の誰にも内緒にしてもらえませんか?」
レフラーツスに聞かれ、ラジオのおっちゃんジョールチが頷いた。眼鏡を掛け直して、大人たちを見回す。
「みなさんも、よろしいですね?」
誰からも反対の声はなく、モーフたちも規制用のカラーコーンで居住いを正して頷いた。
子供たちが校舎から飛び出す。休み時間だ。
催し物用簡易テントには、ラジオのおっちゃんが【防音】の術を掛けたから、声が漏れる心配はない。
「下宿の斜向いのおばさんが俺たちに気付いて、色々教えてくれました」
斜向いのおばさんは湖の民で、下宿のおかみさんと映画の趣味が合うとかで、人種は違うが仲がいい。
小走りに下宿の庭へ入り、学生たちにおかみさんの安否を尋ねた。一人が下宿の扉を少し開けて声を掛ける。おかみさんはすぐ顔を出した。
おばさんは、おかみさんと一頻り無事を喜び合うと、下宿の廊下に目を遣って声を潜めた。
「もう一人の学生さんは?」
「今、電話してるけど……」
おかみさんがつられて囁くと、おばさんは「ちょっと待ってて」と自宅へ引っ込んだ。よく見ると、瓦礫の山に面した窓はヒビだらけで、ガムテープが蜘蛛の巣状に貼ってある。
おばさんは紙袋を持って来て「みんなでお茶にしましょう」と、返事も待たずに上がり込んだ。おかみさんが、電話が終わった学生と、亭主に声を掛け、食堂に案内する。
斜向いのおばさんは、下宿のおかみさんに香草茶とビスケットを渡すと、問答無用で力なき民の学生に上着を着せた。
よくある腰丈の貫頭衣で、裾と首回りには緑色の糸で呪文の刺繍がある。
「どう? 大丈夫?」
「えっ? どうって、サイズ的にはイケてますけど」
おばさんにまじまじと見詰められ、学生が困惑する。
「それね、息子のお下がり。これから実家に帰るまで、ずっと着てるのよ」
「えッえぇッ?」
「いいわね? 外へ出る時は勿論、寝る時も脱いじゃダメよ!」
おばさんは男子学生の両肩を掴んで言い聞かせた。
「でも奥さん、このコ、力なき民よ」
おかみさんは、お茶とビスケットを配りながら苦笑したが、おばさんは窓の外へ目を向けて答えない。配り終えたおかみさんがもう一度言い掛けると、おばさんは片手で口元を覆って言った。
「隠れキルクルス教徒狩りがあるからよ」
みんなの目が、魔力のない学生に集まる。学生は全力で首を横に振り、乱れた茶髪を手櫛で整えて聞いた。
「何スか? それ?」
「ネミュス解放軍がクーデターを起こしたのは知ってるでしょ?」
地下室に居た七人は、同時に頷いた。
下宿の亭主が髭を剃ったばかりの顎を撫でて聞く。
「ラジオで、神政に戻すとか何とか言ってたが……?」
「じゃあ、都内で星の標が爆弾テロを起こした件は?」
「それもニュースで聞いたよ。自治区からここまでどうやって来たか知らんが」
「それが、元から都内に居たらしいのよ」
「えッ?」
魔法使いの六人は言葉を失ったが、力なき民の学生は着せられた魔法の服を引っ張って腰を浮かした。
「それって、コレ着てないと殺されるってコトですか?」
「そうよ。現にお隣さんと裏のご一家と」
サイレンが鳴り、おばさんは勢いよく立ち上がった。
「詳しい話はまた明日!」
お茶に手を付けず、脱兎の如く自宅へ駆け戻る。
長く尾を引くサイレンの響きが消えると、雀の囀りさえ聞こえなくなった。
下宿屋の亭主が玄関に【鍵】を掛けに行く。
みんなは香草茶を口に含んだが、ビスケットには誰も手を付けなかった。
「あ、そうだ。電話……どうだった?」
亭主が戻ってすぐ、おかみさんが聞いた。力なき民の学生は暗い顔で答える。
「リャビーナの親戚には繋がりました。脱出した都民が大勢来て、仮設住宅が満員で、体育館や講堂も神殿の敷地もみんな、足の踏み場もないって言ってました」
親戚も、ギアツィント市に住む学生の家族とは、連絡がつかないらしい。
「でも、俺の親に手紙を出しくれるって言ってくれました」
おかみさんは学生たちに髭を剃らせ、再びみんなで地下室へ降りた。




