1613.境界に在る心
「あのー……ゲルディウスさんの様子がちょっとおかしいんですけど、これは」
「まだ影響を脱していないからです」
案じるアルシオーンに答えたシーシカの声は冷静だ。
おばさんが【渡る雁金】学派の術者に詰め寄る。
「治ったんじゃなかったのかい?」
「病気じゃありませんから」
「いや、まぁ、そうなんですけど、俺たち、その方面は素人なんで、もう少し詳しく教えていただけませんか?」
土木の専門家ジェルヌィが遜った態度で聞くと、シーシカは表情を変えずに頷いた。
「何らかの理由で精霊に囚われた人の心は、置かれた状態が異なるだけで、病気に罹ったワケではありません」
精霊がこの世に在る要の木に居る時に人の心を捕えた場合、心もこの世の木の中に在る。この状態なら、精霊が宿る要の木から人間の身体を物理的に引き離すだけで呼び戻せる。
精霊が、この世と幽界の境界に居る場合も、心はこの世に居るが、幽界に片足を突っ込んだ状態だ。身体を引き離すだけでは呼び戻せず、精霊にわかる言葉で説得して解放してもらうしかない。
ジェルヌィが恐る恐る聞く。
「その状態で、要の木を切り倒したらどうなるんです?」
「捕まった人も一緒に幽界へ行きます」
「……死ぬんですね」
「そうなりますね」
どちらの状態でも、【跳躍】で身体を動かすと、心と身体の霊的な接続が緩み、魂が幽界側に引っ張られてしまう。
「えぇ。それは聞いてたんで、【跳躍】しないで頑張ったんです」
アルシオーンが翡翠色の瞳に強い光を宿し、【渡る雁金】学派の交渉人シーシカに力説する。
「お疲れ様です。彼はあちら側に片足を突っ込んだ状態で、あの要の木からは解放されましたが、まだ完全には、こちら側へ戻っていません」
「えっ? それって大丈夫なんですか?」
呆けた顔の理由はわかったが、一気に不安が押し寄せた。
「何事もなければ、何もしなくても数日で戻って来られます」
「何事って、例えば、どんなコトですか?」
ファーキルは思わず聞いた。
「精霊との再接触や【跳躍】による移動、【召喚陣】や【送還陣】との接触……他にも色々あります」
「えっ、じゃあ、元に戻るまでずっと外に出ない方がいいってコトですか?」
ジェルヌィが、もどかしげに確認する。
シーシカの物言いは冷たく素っ気ない。
「その方が安全です」
モルコーヴ議員が、アルシオーンとおばさんに聞く。
「この男性のご家族がどちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「ゲルディウスは、まだ小さい従弟と二人きりです。私の甥と工業高校の同級生で、私たちの家族と同じ丸木小屋で暮らしてます」
……この人、長命人種だったのか。
ファーキルは、薬師アウェッラーナの童顔を思い出した。二人とも、中学生くらいに見える。実年齢も近いかもしれないが、長命人種の外見と年齢の関係はよくわからない。
「それじゃあ元に戻るまで、同居してる人が、この人と小さい子の面倒を見てあげるのがいいわね」
湖の民の老婆が、アルシオーンに確認の声を掛ける。力ある民の少女は硬い表情で頷いて、ゲルディウスを見た。渦中の人はぼんやりして動かない。
モルコーヴ議員がシーシカに聞く。
「要の木に捕まった方々は全員、あなたが助けて下さったのですか?」
「いいえ。他所の区画で何人も完全に連れて行かれたそうですし、私が介入しても放してもらえなくて、衰弱して亡くなった人も居ます」
「道具がなくて救助を確約できないとのことですが、何が必要ですか?」
「幽界から生者の魂を呼び戻すには、【召喚布】が必要ですけど、空襲で……」
布は初耳だ。
アクイロー基地襲撃作戦では、魔物を異界から呼び出すのに呪符の【召喚符】を使った。
ファーキルは、タブレット端末でメモを取りながら聞く。
「どんな道具ですか?」
「魔法陣を織り込んで、魔力を補充できるように加工した蒼玉を付けた布です」
「支援者の方に取り寄せられないか相談し」
「あれ一枚でトポリやレーチカの一等地に家を建てられるくらい高価なんです。その分、食べ物やお薬を支援してもらった方が、助かる人はずっと多いですよ」
シーシカが亡命議員の提案を遮ると、湖の民の老婆も頷いた。
「要の木に近付きさえしなけりゃいいんだからね」
「でも、柵の外だったのに……」
アルシオーンの目がシーシカに向く。
「根の広がり……範囲がわかりませんから」
「じゃあ、柵を増やさずに今あるのを広げれば」
「個人の感受性……個々の精霊との相性の問題もあります」
明るい声で提案したジェルヌィが、机上で拳を握って俯く。
「精霊の声が聞こえる人なら、声が届かない安全な距離を探れますが、簡単に支配されてしまう人なら、本人にその気がなくても、精霊の手が届く距離まで近付いてしまいます」
「あッ……」
ファーキルは、先程の様子を思い出した。
あまりに自然な動きで全く気付かなかったが、説明するのにあそこまで柵に近付く必要などないのだ。
「じゃあ、どうすれば……」
「私も毎回、確実に助けられるワケじゃありません。精霊の要求を聞き取って、彼ら一人一人に合わせて、人間側が適度な距離を探るしかないんです」
シーシカの説明は明快だが、冷たく突き放して聞こえた。
重苦しい沈黙が降りる。
「声……? 木の話なんて聞こえない……聞いて……話……」
ゲルディウスの口から寝言のような声が漏れ、ギョッとする。
七人の視線が集まったが、彼はそれきり黙って宙を見詰めた。
……こんな、目を開けたまま寝てるみたいな状態で、生活できるのか?
「この人は手前だったので何とかなりましたけど、精霊が幽界まで人の心を引っ張ってしまったら、【召喚布】なしでは呼び戻せません」
「幽界に居る精霊には、説得が届かないのですか?」
モルコーヴ議員が聞くと、シーシカは首を横に振った。
「声は届きますが、あちら側で手を離してもらえても、人間の魂は大抵、自力で現世まで戻って来られないんです」
「えぇッ? じゃあ、幽界で迷子になって、そのまま死んじまうのかい?」
おばさんがゲルディウスを見ると、シーシカはこくりと頷いた。
窓から風が吹き抜け、集会室の凝った空気を掻き回して出てゆく。
「ウチの子もまだ小さいので、いつまでも留守にできません。帰らせていただきます」
シーシカが立つと、彼女を連れて来てくれた老婆も集会所を出た。
☆病気じゃありませんから……「1594.精神汚染の害」参照
☆【召喚布】……「1492.【召喚】の術」「1594.精神汚染の害」参照
☆魔物を異界から呼び出すのに呪符の【召喚符】……「460.魔獣と陽動隊」参照




