1612.柵によらぬ策
様子を見に来た者たちが去る。
畑の縁には八人だけが残った。
ファーキルとモルコーヴ議員、案内してくれたゲルディウスとアルシオーン、助けに来たジェルヌィと力ある民のおばさん、【渡る雁金】学派の術者シーシカと彼女を連れて来た湖の民の老婆だ。
土木の専門家ジェルヌィが、畑の中心に目を向けて言う。
「前はこれで大丈夫だったのに……柵を二重にしないとヤバいな」
「ダメッ! それはいけません!」
シーシカから思いがけず鋭い声が飛び、一同ギョッとして【渡る雁金】学派の術者を見た。
若い女性は要の木に顔を向け、先程の謳うような言葉で何事か声を掛ける。
ファーキルには内容が全くわからないが、シーシカの表情は誠実で、誰かを説得する真剣なものだ。シーシカは不意に口を閉ざし、頷きながら一言、二言発する。
七人は口出しなどできる筈もなく、見えない誰かと交渉する【渡る雁金】学派の術者を見守った。
「ここではアレですから、集会所へ行きましょう」
シーシカに湖南語で声を掛けられ、七人は呪縛が解けたようにぞろぞろ動き出した。
第一区画第五集会所の手前の部屋は、呪符作りの作業をする者でいっぱいだ。おばさんが二棟続きの奥の戸を開けると、誰も居なかった。
「今の時間は治療の手伝いで、診療所の別棟へ行ってるのよ」
アルシオーンとおばさんが、小さな板戸を横にずらして、窓を開ける。日が差し込むと同時に風が通り、やっと息詰まる緊張が解けた。
ジェルヌィとファーキルが、端に寄せてあった会議机を動かす。ゲルディウスも手伝おうとしたが、湖の民の老婆に止められた。
八人が、向い合せに四人ずつ腰を落ち着ける。モルコーヴ議員が【渡る雁金】学派の術者を労った。
「シーシカさん、有難うございます。私は初めて、要の木に心が囚われた現場に居合わせたのですが……色々教えていただいてよろしいかしら?」
「あッ……あぁあの、助けた? 助けて下さった……んです、か?」
ゲルディウスがぎこちなく言葉を発し、シーシカとアルシオーンが同時に頷く。精霊に囚われた青年は、まだ半分、夢の世界に居るような目で、たどたどしく礼を言った。
……この人、マジで大丈夫なのか?
みんなの目が【渡る雁金】学派のシーシカに集まる。
「あなたは、今後一切、あの畑に近付かないで下さい」
「えッ……」
「どうしてですか?」
みんなは驚いたが、当のゲルディウスは反応がなく、アルシオーンが聞いた。
「一度、精霊と繋がりができた人は、捕まりやすくなるからです」
「でもそれじゃ、畑仕事が……」
「他の仕事に変えて下さい」
シーシカは、困った顔で聞くおばさんに皆まで言わせず、ぴしゃりと言った。確かに、こんな有様で鍬などを使う力仕事は危険だ。
ジェルヌィが話題を変える。
「柵を増やしちゃダメって言ってましたけど、どうしてです?」
「要の木と話し合って、柵を増やさない約束で彼を解放してもらったからです」
「えっ? 木と話せるんですか?」
ファーキルは驚くと同時に納得した。
あの謳うような不思議な抑揚の言葉が、樹木の言語なのだろう。
「樹木に限らず、明確な意識を持つ強い精霊と意思疎通する為の言葉です」
「力ある言葉とは全く違うんですのね」
モルコーヴ議員も初耳らしい。
「山岳地帯などで暮らす少数民族に伝わる言葉です」
彼らは何世代もかけて、様々な精霊から教わった。遠隔地で暮らす全く交流のない民族も、精霊と交わす言葉は同じ言語を用いる。
キルクルス教やフラクシヌス教などとは異なる独自の信仰に基づいて生きる彼らにとって、現世と幽界を自由に行き来する精霊は、外国人と同じ感覚で接する隣人なのだ。
「話が通じるんなら、人の心を盗らないように言い聞かせられないのかい?」
「ほぼ不可能です」
おばさんが【渡る雁金】学派の術者に注文をつけると、シーシカはきっぱり突っぱねた。
「精霊は、人間とは全く異なる存在です」
「そりゃまぁ……」
「彼らと同じ言語を使ってどれだけ対話を重ねても、価値観やこの世の身体の構造、世界の認識の仕方、命の在り方自体が根本的に違うので、約束や取引が成立しないんです」
「でも、さっきは、柵を作らない約束で放してもらえたんですよね?」
ファーキルが聞くと、シーシカは表情を動かさずに頷いた。
「その約束が、人間が思う約束とは違うんです」
「えぇ……? どう違うんですか?」
「あの精霊と付合いが浅いので、どんなつもりで彼の解放を承諾してくれたか、私にもわかりません」
ジェルヌィが黒髪の頭を掻きつつ、茶髪のゲルディウスを見る。力なき民の若者は、話題の中心になっても反応がない。
「もしかして、柵を増やさなくても、後で返せって言われたりとか……?」
「その可能性はありますね」
「俺たちがいきなりやって来て、仲間の木を伐り倒しまくって、森の環境を荒らしたんだ。怒ってるだろうなとは思うけど」
「私らだって、好き好んで来たワケじゃないのに」
伐採の指導をしたジェルヌィが唇を噛み、おばさんは不平を鳴らした。湖の民の老婆が、問題の人物を窺う。ゲルディウスは机の中央をぼんやり眺めて動かず、アルシオーンも青年を気遣わしげに見詰めた。
窓から吹き込む風には、様々な植物の匂いが混じる。
難民キャンプの開拓が進み、第一区画の敷地内に残る樹木は、数本の要の木だけだが、森の息吹はファーキルが思うよりずっと強かった。
……パテンス市の職人さんたちが、「要の木を伐るな」って言うのも、つまりそう言うコトなんだよな。
アーテル軍は絨緞爆撃で、ネモラリス共和国の都市を幾つも更地に変えた。
ネモラリス難民は大森林を貸与され、森を伐採して生活の場を伐り拓いた。
大規模な面的爆撃で逃げる間もなく焼かれた人々。
大地に根を張り、逃げられない身のこの世の木々。
成す術もなく生命と棲み処を奪われたのは同じだ。
ファーキルは諦め混じりに言葉をこぼした。
「精霊からしてみれば、何で一方的に人間の言うコト聞かなきゃなんないんだってなりますよね」
「あの要の木は、“近所の木がどこかへ行った代わりに知らない生き物がたくさん来て、それはそれで面白い”と言っていました。でも、淋しいから、柵で隔てて一人ぼっちにするのはやめて欲しいみたいです」
「えぇッ? 怒ってるとかじゃなくて?」
「仲間を殺されて恨んでないんですか?」
ファーキルとジェルヌィの驚きが重なる。
「“もっとよく知りたくてちょっと捕まえてみただけ”だそうです。あの要の木に柵を増やすと却って危険なので、それ以外の対策が必要です」
精霊と意思疎通できるシーシカは、他人事のように淡々と答えた。
☆治療の手伝いで、診療所の別棟へ……「1590.話す暇もなく」「1591.区画間の格差」参照
☆山岳地帯などで暮らす少数民族……「1593.意識的に視る」参照
☆パテンス市の職人さんたちが、「要の木を伐るな」って言う……「1184.初対面の旧知」「1185.変わる失業率」「1594.精神汚染の害」参照




