1611.囚われた青年
「前はあのくらい近付いても平気だったのに」
「柵をもっと広げた方がいいのか?」
「二重にするとか?」
「そんなコトしたら、畑地が減るじゃないか」
「心を食われるよりマシだろ」
「こんなんじゃ、危なくて畑仕事できないぞ」
「もうなんか害虫に助けられた気がしてきた」
要の木が中央に聳える畑を遠巻きにして、難民たちが囁き交わす。
……俺が、畑を見たいなんて言ったせいで……!
力なき民のファーキルは成す術もなく、要の木を囲む柵の前にへたり込んだゲルディウスを見守るしかない。
力ある民のアルシオーンが、青年の両肩を掴んで揺さぶり、必死に呼掛けるが、力なき民のゲルディウスは呆然として、応答がなかった。
小柄な少女一人では、成人男性を力尽くで移動させられない。だが、力なき民が助けようとすれば、救助者も要の木に心を囚われてしまう。
声を聞きつけて集まった人々は、丸木小屋の壁に張り付いて動けなかった。
「こっちよ!」
「はいはい、どいてどいてー」
聞き覚えのある声と同時に人垣の一角が割れた。
ジェルヌィが、黒髪のおばさんと共に畑へ踏み込む。ネモラリス建設業協会の青年は、首から【穿つ啄木鳥】学派の徽章を提げるが、おばさんの徽章は見えなかった。服の模様を確認する暇もなく、二人は黒土の畑を駆けてゆく。
ジェルヌィが、ゲルディウス青年の腋の下に手を入れて強引に立ち上がらせ、おばさんが腕を掴んで肩を貸した。
「いいから、先に出て」
アルシオーンも立ち上がり、おばさんに倣おうとするが、ジェルヌィが断った。
力なき民が見守る中、抜け殻になったゲルディウス青年が畑から運び出される。
「おい! シーシカさんはまだか?」
「今、呼びに行ってもらってます!」
ジェルヌィの叫びに人垣から即答が飛ぶ。
場に安堵の空気が流れるが、言い知れぬ緊張感は残った。
……そんなよくあるコトなのか?
ファーキルは、手慣れた様子に戸惑った。
「でも、第二十九区画だろ?」
「例の機械で第三十区画に連絡して、そこから自警団が跳ぶし、前より早いよ」
ファーキルは息が詰まりそうな思いで、畑から連れ出されても目覚めない青年を見詰め、難民の囁きに耳を澄ました。
報告書には、要の木に心を囚われた者の人数も、詳しい様子も、対処も上がって来なかった。ネモラリス建設業協会の者たちが、会議の席で話すのを少し耳にしただけだ。
ファーキルは、畑に案内してくれたゲルディウスの肩にそっと手を触れた。地面に横たえられた青年は、全く反応しないが、呼吸はある。
「あ、あの……これって治るんですか?」
堪らずジェルヌィに聞くと、呪印入り作業服についた土を払う手を止めた。
「シーシカさんが呼び戻してくれるよ」
「シーシカさん?」
初めて耳にする名だ。ゲルディウス青年の傍らにしゃがんだアルシオーンが、意識のない手をそっと握って答える。
「第二十九区画に居る【渡る雁金】学派の術者です」
「わたるかりがね?」
検索しようと反射的にタブレット端末を手にしたが、表示は「圏外」だ。小型の衛星移動体通信システムでは、広域には対応できない。
……各区画の術者一覧とかあった方がいいよな。
難民たちが口々に状況を説明する声が近付いて来る。騒ぎを聞きつけ、赤毛の女性が畑に姿を見せた。
「モルコーヴ先生……!」
ファーキルは声が震え、後が続かなかった。
「私も、要の木に囚われた現場は初めてなのですが……」
赤毛の亡命議員が、ネモラリス建設業協会所属の支持者に視線で問う。
ジェルヌィは頷いた。
「今、第二十九区画へ【渡る雁金】学派の術者を呼びに行ってもらってます」
「その人が来れば、彼は助かるのですね?」
「……上手くゆけば、多分」
土木の専門家ジェルヌィは、専門外の件への明言を避けた。
ファーキルは不安に駆られたが、ジェルヌィに食い下がっても、状況は好転しない。拳を握ってゲルディウスを見詰めた。拳の中で掌がじっとり汗ばむ。
畑の隅に忽然と人の姿が現れた。陸の民の若い女性と、湖の民の老婆だ。
どちらが【渡る雁金】学派の術者シーシカなのか。
二人の胸元に目を凝らしたが、徽章は見えなかった。
「この人を動かす時、【跳躍】を使いませんでしたか?」
口を開いたのは、陸の民の女性だ。
ジェルヌィとアルシオーン、肩を貸したおばさんが、同時に首を横に振る。緑髪が八割方白くなった老婆が、意識のない青年に気の毒そうな目を向け、一緒に来た陸の民に聞いた。
「助かりそうかい?」
「道具がないので、確約はできません」
ファーキルは、冷徹な声にギョッとして女性の顔を見た。
「身体の移動に【跳躍】を使わなかったのなら……少しはマシです」
続く言葉のどこに安心できる要素があるのか不明だ。
ジェルヌィが、推定【渡る雁金】学派の術者シーシカに場所を譲る。
人垣が口を閉ざし、時が止まったような沈黙が降りた。
アルシオーンと肩を貸したおばさんがゲルディウスから離れ、ファーキルも二歩退がる。
術者は、地に横たわる青年の首筋に手を触れ、小声で力ある言葉を唱えた。初めて聞く呪文だ。人々が固唾を飲んで見守る中、呪文を唱える声が止む。
倒れた青年は動かない。
緊張の糸が張り詰める中、【渡る雁金】学派の術者は青年の手を握り、要の木に強張った顔を向けた。
術者シーシカの口から、耳慣れない響きの言葉が出る。耳に馴染んだ湖南語や、共通語とは全く違うが、魔力の制御符号の力ある言葉でもない。湖東語など、周辺地域の言語に似た響きもなかった。
謳ように流れる言葉が、要の木に向けられる。
術者が不意に黙り、こくりと頷いた。一言二言発し、青年の手の甲を軽く叩く。
ゲルディウスが勢いよく半身を起こし、周囲を見回した。拍手と喜びの声が上がり、人々が晴れやかな顔で解散する。
だが、【渡る雁金】学派の術者シーシカの顔は険しかった。




