1609.地図なき集落
大型車両が通れる道までは、申し訳程度でも【魔除け】の敷石の縁取りがあったが、軽トラ一台分の幅員しかない道からは、何もない砂利道だ。
モルコーヴ議員が、砂利道に視線を向けて言う。
「これでも一応、呪印を刻んだ小石を撒いてあるので、力ある民が歩けば」
「どのくらい防げるんですか?」
「雑妖なら確実に防げますよ」
ファーキルは、赤毛の国会議員の説明に頷いて道の端に目を凝らした。確かに、何かが刻まれた小石が幾つもある。
「これは、【編む葦切】学派の術者が作らなければ効果がないので、車道に薄く敷く程度にしか数がないのですよ」
「呪符は誰が書いてもいいのに?」
「あれは紙やインクが特殊な素材で、物にそれなりの力があるからです」
「普通の小石に力を持たせるのは、別なんですね」
手作業で、難民キャンプの道全体に行き渡る数の小石に呪印を刻む。
考えただけで気が遠くなりそうな作業だ。
それだけ頑張っても、防げるのが雑妖程度では、やりきれない。
木々の香と畑の湿った土の匂い。
夏の都にはない匂いに包まれ、砂利道を一歩一歩踏みしめてゆく。ファーキルの一歩には何の力もないが、魔法使いのモルコーヴ議員は、この道を通るだけで、少しでも難民を守る力を貸せる。
ファーキルは、力なき民であることが惨めになってきたが、顔を上げて森に拓かれた道を歩いた。
モルコーヴ議員は、ボランティアセンターと似た作りの小屋で足を止めた。
小屋の前にある柱と屋根だけの作業場は、小屋と同じ幅だ。扉の横には「第一区画集会所(一)」と書かれた木札が掛かり、反対隣には木製の掲示板があった。
「こんにちは。モルコーヴです」
ベテランの女性議員がノックすると、すぐ扉が開いた。顔を出した中年男性の胸元で【編む葦切】学派の徽章が、春の日差しを受けて輝く。
「モルコーヴ先生、いつも有難うございます」
「今日は、湖南語の辞書と、他の教材の配布予定をお持ちしました」
赤毛の議員が言うと、作業中の人々が一斉にこちらを向いた。
ファーキルがリュックサックから一冊出して渡す。
「これ、新品ですか? こんな立派な……」
応対に出た【編む葦切】学派の職人が、辞書を押し戴いて涙ぐむ。
他の者たちは、呪符を書く作業を再開した。
二棟続きで建てられた奥の部屋は、戸が閉まって人が居るかどうかわからない。
モルコーヴ議員がトートバッグから紙束を取り出した。
「予定表と、学習会の希望調査です。お届けするのは、大人向けと子供向けの教材で……」
この区画での受講希望者を把握して、講師の予定をやりくりする。
第一区画は比較的人口が多く、九千人余りが暮らす。集会所は複数あり、気候のいい時期なら、外の作業場でも授業できるかもしれないが、それでも一度に希望者全員が受講するのは無理だ。
ファーキルは、ふと先程の光景を思い出し、考えが止まった。
ここでは、子供も農作業などに従事しなければ、生活できない。保護を与えられるだけの弱者ではなく、暮らしを支える労働力なのだ。
ラクエウス議員、針子のアミエーラとサロートカ、そして少年兵モーフから聞いたリストヴァー自治区東部バラック街と、同じ状況だった。
難民キャンプの衛生環境、医療体制、栄養状態が、話に聞いた彼の地よりマシらしいのは、魔法使いが共に暮らし、外部からの支援が毎日切れ目なく続くからだ。
だが、それは脆く細い。
国連難民高等弁務官事務所は、大国の圧力でネモラリス難民の支援から手を引いた。他地域の難民を人質に取られ、苦渋の決断だったろう。
あのお婆さんが、異教の人々に呼掛けてくれなければ、今頃どうなったかわからない。これで当面は凌げるようだが、異教の地で暮らす人々の関心が薄らげば、支援が減る。
一番の解決策は、平和を取り戻すことだ。
……言うだけなら、簡単なんだけどな。
魔法使いの亡命議員は、ファーキルの為に徒歩で、難民キャンプ内の細道を案内する。ファーキルは、難民の老婆が植木鉢の薬草を世話する姿を写真に収め、モルコーヴ議員について、とぼとぼ歩いた。
他の区画は、アサコール党首ら亡命議員と、パテンス神殿信徒会の者が二人一組で回り、辞書と予定表などを配布する。
「区画内の地図ってないんですか?」
「特に作っ……あ、ネモラリス建設業協会の職人さんが、何人か自分で作った分をお持ちだったような……」
ファーキルも、言われてかなり前に見せてもらったのを思い出したが、クラウドでそれらしい画像ファイルを見た記憶がない。
「どうして共有しないんですか?」
「職人さんがそれぞれ、自分が担当した建物と、その周りを空撮写真から描き起こした略地図で、その後もどんどん変わりましたから」
「あー……でも、地図がないと不便じゃありませんか?」
ファーキルが聞くと、赤毛の亡命議員は少し足を止めて考えた。
歩みを再開して言う。
「ここで暮らす人の大半は、徒歩で行ける……よく知っている所にしか行けません。ボランティアのみなさんも、担当が決まっていますからね」
「他所の区画と交流ないんですか?」
「境界近くの人たちはありますが、徒歩で遠出すると帰りが危ないですからね」
一筆書きで、区画全体を一気に【道守り】で囲める程の魔力の持ち主は、庶民の魔法使いには居ない。
拡張工事が進んでからは、集会所など、わかりやすい建物を中心に区画を何分割かして囲む。当然、囲みの境目には守りがない。
外からの侵入は、ある程度防げるが、結界内で魔物が涌くこともある。
そもそも、強い魔獣は、この程度の結界などものともしなかった。
「私たちは【跳躍】しますから、移動する分には地図が要りませんし」
「あー……」
「でも、そうね。地図があれば、近隣の区画同士で効率よく助けあえるかもしれません」
「じゃあ……」
「建設業協会の方々に相談してみますね」
「有難うございます」
ファーキル自身、具体的に地図をどう活用すればいいか、考えがあるワケではないが、森林と接する外縁部以外は、これ以上開拓できない。
必要に迫られてから慌てて作るより、気付いた時に作っておく方がいいだろう。
……って言うか、正確な地図を作る暇もないくらい忙しかったってコトだよな。
略地図なら、航空写真から目視でも、写し絵方式でも描き起こせるだろうが、正確な地図を作るには、測量技師が必要だ。専門家の仕事で、大変な手間と時間が掛かる。
生存に直結しない地図作りは、後回しにされても仕方がなかった。
☆国連難民高等弁務官事務所は、大国の圧力でネモラリス難民の支援から手を引いた……「1606.避難地の現状」参照
☆呪符は誰が書いてもいい……「399.俄か弟子レノ」「403.いつ明かすか」「0951.魔法の必要性」「1186.難民支援窓口」参照
☆大人向けと子供向けの教材……「1599.手に入る教材」参照
☆あのお婆さん……国連難民高等弁務官「1404.現場主義の力」参照
☆区画内の地図/かなり前に見せてもらった……「1184.初対面の旧知」参照




