1596.初心者の政治
「勿論、寄付して下さる方々は、元より我が国に好意的です。そこから、如何に友好の輪を広げるかが、肝要なのです」
「ふむ。政治家や官僚、財界の有力者などではなく、庶民とも交流を広げる草の根活動に力を入れる、と?」
イーニー大使は、ラクエウス議員の直截的な質問にも気さくに応じた。
「今は誰もが、インターネットを通じて世界中の情報を受取り、世界中へ情報を発信できる時代です」
「ふむ」
ファーキル少年の利発な顔が思い浮かび、次いで、運び屋フィアールカの緑髪に縁取られた不敵な顔が脳裡を過る。
「民主主義の政体を採る国が増え、そこでは形式上、今は誰もが主権者です」
「ラクリマリスやアミトスチグマは王国ですが」
「両国とも王国ですが、議会を設置し、国民の声を国家運営に組込む制度を有します」
ラクエウス議員が関係の深い国の名を挙げると、イーニー大使は皆まで言わせず語った。
「確かに、国によっては、その種の折衷で、世間が上手く回るようですな」
大使は老議員の肯定に頷き返し、話を続ける。
「そうですね。旧ラキュス・ラクリマリス王国は、完全な民主主義国家に移行しましたが、それでは上手くゆかなかったから、半世紀の内乱が起きました。分離・独立したネモラリス共和国も、ネミュス解放軍がクーデターを起こす事態に陥ったのです」
「民主化を急がず、ラクリマリス王家とラキュス・ネーニア家に権力を残したまま、補助的な議会から段階的に権限を拡大してゆけばよかったと?」
ラクエウス議員は失笑を押し殺した。
……今更そんな仮定の話を。
アミトスチグマ王国に長く駐在するイーニー大使は、こくりと頷いて語った。
「両家による統治は、ラキュス湖の成立以来、七千年近くもの長きに亘って上手く機能してきました」
その間、周辺国では戦乱や自然災害、強大な魔獣の出現、飢餓や疫病などによって、多くの民が命を失い、国土が荒廃する事態が幾度となく生じた。
幾つもの国が現れては消え、民族が滅び、あるいは生まれ、国境線が引き直される。
七千年近くも、ラクリマリス王家とラキュス・ネーニア家による共同統治国家ラキュス・ラクリマリス王国は、地図上で不動の存在であり続けた。
齢数百年を数える者の人口比は、三界の魔物との戦いで一時的に減りはしたが、概ね、周辺のどの国よりも高かった。
だが、民主化から百年程で民族紛争が勃発。
半世紀もの間、この地の人々にとって初めての「人間同士による戦乱」が続く。
民主化から二百年も経たぬ間に国家が分裂し、陸の民のラクリマリス家は再び神政に呼び戻された。
湖の民のラキュス・ネーニア家は、まだ民に権力を委ねる姿勢を変えないが、長命人種を中心に「民主化こそが諸悪の根源である」とする反政府デモが発生。神政を求める勢力が、ネミュス解放軍を組織するに到る。
首都クレーヴェルのクーデター後、ラキュス・ネーニア家の有力な分家筋であるウヌク・エルハイア将軍が、混乱を鎮める為、解放軍の統率者となったが、将軍自身には、神政を担う気がなさそうだ。
ラキュス・ネーニア家のシェラタン当主は沈黙を守り、現在も行方不明だった。
今、彼女が公の場に姿を現せば、神政を担うべき女神の末裔として、担ぎ上げられるだろう。
神政を担う者のないアーテル共和国では、民主主義は揺るがぬように見えるが、内実は破綻寸前だ。
投票率は平和な頃でさえ、七十パーセントにも満たず、戦争とネモラリス人ゲリラの活動、魔獣の出現、インターネットの遮断などにより、更に激減した。
民主主義は、広く国民に主権者としての権利を与えるが、国民一人日当たりの権限は等しく弱い。
自分一人の票如きでは、何も変わらない、と無力感を覚える程だ。
直近のアーテル大統領予備選では、魔獣が多数徘徊し、市街地で人間が捕食される中、一命を賭してまで投票所に足を運び、主権者としての権利と義務を行使する者が少なかった。
「アルトン・ガザ大陸には、民主主義で上手く回る国もあるようです。しかし、我が国……いや、かつてのラキュス・ラクリマリス王国の地に暮らす民にとっては、運用が困難な制度だと言わざるを得ません」
「昔に戻した方がいいと言うのですかな?」
イーニー大使は、ラクエウス議員の目を見た。老議員は弛んで垂れさがった瞼を目いっぱい押し上げ、力ある陸の民の外交官を見詰め返す。
主神フラクシヌス派の彼が、ネモラリス領へ残ったのは、その民主主義を選んだからだろうが、真意はわからない。
「我々庶民には、主権者として国家に責任を持つなど、荷が重過ぎます。昔から言うではありませんか。“一艘に八人の船頭は、船が八つ裂きになる”と」
船を操る術者が、一艘の船に大勢乗り合わせ、それぞれが別の方向へ動かそうとすれば、魔力による力比べが生じ、船はどこへも行けなくなる。彼らが力の限りを尽くせば、終には船が引き裂かれ、湖の藻屑と化すと言う寓意だ。
「しかし、今更、戻せるものですかな?」
「ラクリマリスは内乱終結後、速やかに現在の形に軟着陸しました。この三十年余り、特に大きな混乱もなく過ごしておりますよ」
外国となったネモラリス共和国が外から見た限り、神政復古に反対するデモなどは行われなかった。
「しかし、こちらはラキュス・ネーニア家が乗り気ではないようだがね?」
「我々庶民は、大半が政の素人です。特に常命人種は、統治の初心者です」
「ふむ……それは認めざるを得ませんが」
ラクエウス自身は、三十年余り、リストヴァー自治区唯一の国会議員であり続けたが、齢九十を越えるこの年になっても、長命人種の魔法使いの目で見れば、初心者の域を出ないのだ。
「統治者として、国家運営に関する高度な内容を自学自習した上で投票所へ足を運び、政治家に正規の手続きで陳情する民が、どれだけ居ますか?」
ラクエウス議員は言葉に詰まった。
リストヴァー自治区には、小学校すら卒業まで通えない生活困窮者が多い。読み書きできず、陳情の手続きも知らない彼らの為、日々奔走したのだ。
「他国はいざ知らず、現在、我が国とアーテルは、無数の暗君がワケもわからぬまま政に手を出すような状態なのです」
イーニー大使の声は苦かった。
☆両家による統治は、ラキュス湖の成立以来……「1563.ふたつの歴史」参照
☆内実は破綻寸前……「1162.足りない信任」「1164.信任者の実数」「1343.低調な投票率」~「1346.安定には遠く」「1356.戦時下の民意」参照
☆インターネットの遮断……「1218.通信網の破壊」~「1222.水底を流れる」「1261.対クレーマー」「1262.沈みゆく泥船」参照
☆ネモラリス人ゲリラの活動……「1260.配布する真実」「1290.工場街の調査」参照
☆魔獣の出現……「1344.投票所周辺で」「1442.大繁盛の理由」「1476.本選前の状況」参照
☆直近のアーテル大統領予備選……「1356.戦時下の民意」参照




