1595.流出した人材
「みんなの食堂の代表者から、メールが届きました」
珍しく、ファーキル少年がラクエウス議員の居室を訪れた。
ラクエウス議員は、報告書を書く手を止めて、声を掛ける。
「鍵は掛かっておらんよ。入り給え」
「失礼します」
礼儀正しく応じ、薄い紙束を手にした少年が、小走りで机の傍へ来た。
「リストヴァー自治区から、小麦粉とお礼状が届いたそうです」
老眼鏡を掛け直し、紙に打ち出された電子メールにざっと目を通す。
小麦粉は全部で千袋届き、三つの慈善団体で分配すると決まった。
三団体とも、アミトスチグマ王国の街で暮らすネモラリス難民の支援に苦心するが、これで当面は、昼食に最低一個はパンを出せるようになるらしい。
元はアミトスチグマ人の困窮者を支える団体だ。ネモラリス難民の流入で、負担が急増した。
彼らはそれでも、外国人であることを理由に排除せず、支えてくれる。だが、一般人には口さがない者も居た。
……しばらくは、ネモラリス人への風当たりがマシになるとよいのだが。
「あ、それ、昨日の報告書ですか?」
「うむ。だが、まだどうなるかはわからんよ」
ファーキル少年が、書きかけの報告書を目敏くみつけた。
ラクエウス議員は昨日、アミトスチグマ王国に駐在するネモラリス共和国大使館へ足を運んだ。
すっかり打ち解けたイーニー大使が、老いた亡命議員を快く迎えた。
いつも通り応接室で二人きりになる。我ながら何とも奇妙な気分だ。
「思い切って、SNSで呼掛けてみたんですよ」
「何をですかな?」
イーニー大使は、嬉々としてタブレット端末をラクエウス議員に向けた。
報告書などで見慣れたSNSの画面だ。
〈アミトスチグマ王国の難民キャンプ以外の場所へ
避難されたネモラリス共和国民の皆さまへ
大使館で食料などの配給を行います。
#拡散希望
#リアルでも拡散希望〉
文章はそれだけで、添付画像には、大使館の地図と、配布時間、条件などをやや詳しくまとめた表もある。
ほんの一週間程前の投稿だが、既に二万件以上拡散済だった。
ラクエウス議員が見守る間にも、矢印脇の数値がちょこちょこ動く。
「端末を手に入れられたネモラリス人は、決して多くはないでしょう。しかし、これを見て隣近所のアミトスチグマ人が教えてくれれば、一人でも多く助かるのではないかと思いましてね」
「成程。恐れ入ります」
「先日やっと、アミトスチグマ政府の保健省から、難民キャンプに居住する人々の統計データをいただけました」
正規の経路を通して難民キャンプ入りした者の分しかないそうだが、ある程度の推測はできるようになった。
難民キャンプに落ち着いた力ある民が地元へ跳び、残った身内や力なき民の友人知人を【跳躍】でアミトスチグマ王国へ連れ出す場合もある。また、【跳躍】で帰国して戻らない場合もあった。
電子カルテで把握できるのは、難民輸送船でアミトスチグマ王国へ渡り、予防接種を受けた者、あるいは、【跳躍】で連れて来られた者の内、負傷や病気、出産などで診療記録のある者、そして、難民キャンプで産まれた者だ。
漏れが生じるのは、致し方ない。
フラクシヌス教団及び、ラクリマリスとアミトスチグマ両政府などが、難民輸送船の待機者や、乗船者を登録したデータベースにも、漏れや重複が生じ不正確だ。
「四十三万人……ですか」
アサコール党首も、アミトスチグマの国会議員ジュバーメン氏を通じ、王国医師会から同じデータを受領した。
非公式の授受で、発覚すれば双方の立場を危うくしかねない。
ラクエウス議員は、初めて目にしたかの如く、驚いてみせた。
イーニー大使が重々しく頷く。
「少なくとも、ギアツィント市と同じ規模の人口が、国外流出したのです」
ラクリマリス王国の親戚宅や、難民キャンプ以外のアミトスチグマ領、その他の周辺国へ逃れた者を含めれば、どれ程の人材が流出したのか。
大使館から遠い、交通費もない貧困など、様々な事情で名乗り出られない為、実数の把握は困難だ。
少なくとも、アサコール党首以外の亡命議員は、SNSで大使館の呼掛けを目にしても、決して名乗り出ない。
国内では、空襲と捕食、飢餓や疫病などで、多数の命が失われた。
アーテル軍の空襲は鳴りを潜めたが、人手不足で復興どころか、復旧も遅々として進まない。
臨時政府が主導する復興事業の進捗情報は、度々寄せられる。だが、開戦から二年以上経つ現在も、住民が正式に帰還したと言う話はない。
また、ネーニア島の国境付近に位置する諸都市への立入制限も、未だに解除されなかった。復旧工事には着手したようだが、一般人の帰還は全く目途が立たない。
食糧事情は依然として厳しく、四十万以上もの民が一度に帰還しても、餓死者を増やすだけだ。
アーテル共和国との戦争状態が継続する限り、また、いつ、空襲が再開するとも知れず、意図の読めない戦闘の休止だけでは、帰還目標すら立てられなかった。
「その統計で、元の職業や子供の人数などは、わかりませんか?」
「年齢と性別はありますが、何せ、元がカルテですからね」
「あぁ……儂は、ボランティアの方々からお伺いしたのですが、区画によっては先生がおらず、先生が居る区画でも、教科書や辞書がなく、親たちが教育の不安を強く訴えておるそうなのですよ」
「終戦の道筋が全く見えないのでは、どちらの国の教育を受けさせるか、悩ましい限りです」
イーニー大使は沈痛な面持ちで頷いた。
「仮に今から三年後に終戦を迎えられたとしても、学齢期の子供たちにとって、五年もの喪失は、その後の人生に大きな影を落とします」
「流石キルクルス教徒、教育について、我々より深く憂慮する……と」
「無論、生き延びることが先決であり、大前提ではあります。しかし、その後の復興など長期的な視野に立って見れば、その弊害は計り知れません」
「レーチカの臨時政府も、そう考えてくれればいいのですが」
イーニー大使は、額に掌を押し当て、沈黙する。
ややあって、タブレット端末を迷いのない動きでつついた。
〈辞書募集!
難民キャンプでの学習用に
ご家庭で眠る湖南語、共通語の辞書をお送り下さい。
※ 恐れ入りますが、送料はご負担下さい。
宛先はこちら〉
大使館の所在地を付けたこの投稿も、瞬く間に拡散が始まる。
ラクエウス議員は、他人事ながら肝が冷えた。
「何の相談もなしに……よろしいのですか?」
「大丈夫です。実際の行動は、拡散件数の一万分の一もあればいい方ですから」
「なんと……しかし……」
気を揉むラクエウス議員に対して、イーニー大使はあっけらかんと答える。
「職員には勿論、周知しますよ。寄せられた辞書は、既にある寄付品と共に繋がりができた慈善団体に託します」
「既にある寄付……?」
先程から、驚かされる話ばかりだ。
「SNSでネモラリス難民の窮状を知った方々が、わざわざ大使館の所在地を調べて、色々な物を送って下さったのですよ」
「なんと……」
ラクエウス議員は、思いもよらぬ支援に胸が熱くなった。
「大使館員も、最初は突然の寄付に驚きましたが、今はもう慣れて、住所や連絡先のわかる寄付者には、お礼の品をお送りしておりますよ」
「そんな予算が」
「いえ、パソコン操作の得意な職員が、小冊子を作ってくれたのですよ」
内容は、職員が実家で食べた郷土料理のレシピ、子供の頃に祖父母から聞かされた昔話、SNSで公開済みの「本国が平和だった頃の写真」だ。
郵送は少数で、多くはデータ送信すると言う。
「我が国を知る人が増えれば、味方も増えます」
支援への返礼を兼ねた情報戦略だった。
☆みんなの食堂……「1283.網から漏れる」「1305.支援への礼状」「1381.支援者に支援」「1392.夜明けの祈り」「1404.現場主義の力」「1425.掴めない糸口」「1440.電脳世界の縁」「1450.置かれた手紙」参照
☆一般人には口さがない者……「1186.難民支援窓口」参照
☆大使館で食料などの配給……「1424.歌ってみた者」参照
☆難民輸送船の待機者や乗船者を登録したデータベース……「748.異国での捜索」「1424.歌ってみた者」参照
☆アサコール党首以外の亡命議員は(中略)決して名乗り出ない……「295.潜伏する議員」「402.情報インフラ」「626.保険を掛ける」「1117.一対一の対話」「1581.枷となる信仰」参照
☆臨時政府が主導する復興事業の進捗情報……「527.あの街の現在」「528.復旧した理由」「1175.役所の掲示板」「1422.膨張した兵器」「1474.軍医の苛立ち」参照
☆SNSで公開済みの「本国が平和だった頃の写真」……「1229.名もなき肯定」参照




