1594.精神汚染の害
「えっ? おばちゃん、何で?」
男子中学生が不安な声を上げた。
隣で男子小学生が、兄と同じ顔をして【渡る雁金】学派の術者を見る。
若い母親は、ずり下がった幼児を起こさぬよう、そっと抱き直して言った。
「木の精霊の“好き”って言う感情に心を絡め取られて、その木の傍から離れられなくなるの。飲まず食わずでずっとそこに居るから、飢え死にして最終的に腐って養分になるからよ」
「それがさっき言ってた精神汚染?」
若い母親は、高校生の姪に研究者の顔で頷いた。
男子中学生が、恐ろしい話の穴をつつく。
「でも、帰って来なかったら、家族が心配して捜しに行くよな?」
「勿論、一人で森に入ったりしないから、一緒に行った樵仲間とかが最初に気付くんだけど」
精霊による精神汚染を受けた者は、こちら側の声が届かなくなる。
魂だけを幽界に連れてゆかれるからだ。
木の精霊は、肉体である樹木をこの世に置いて幽界へ出掛けても支障ないが、人間はそうではない。
彼らにはその違いがわからず、無邪気に遊び場へ連れ出すのだ。
精神汚染された魂は、この世を忘れ、木の精霊と至福の時を過ごす。特に何をするでもなく、木の精霊と共に在るだけで無上の喜びを与えられるのだ。
「それは、捕まった人自身の心から自然に湧き上がる喜びじゃなくて、木の精霊の気持ちに染まってるだけなの」
「えぇッ……おばちゃん、それって、助かンないの? 仲間が連れて帰るとか」
「魂を抜かれてるんだから、身体だけ強引に移動させても意味ないの」
男子中学生が、望みを託して再び聞いた。
「ホントに一回捕まったらおしまい? 何かない?」
「一応、あるにはあるけど、ここじゃ無理よ」
「えぇッ? 何で?」
「道具も何もないからよ」
「柵作ってくれた職人さんに頼んで、作ってもらうのナシ?」
少年が必死の形相で食い下がる。
難民キャンプの丸木小屋は、精霊が宿る要の木を避けて建てられる。奥地へ行く程、要の木が増え、家々の間隔が開いた。
区画の敷地が広がれば広がる程、【魔除け】の敷石など、防護資材の必要量が増す。【道守り】などの呪歌による防護範囲も広がり、更に人手が必要になる上、守りが手薄になる。
道も、要の木を避けて通す為、真っ直ぐではなく、車輌が侵入し難くかった。
畑も、要の木を囲んで作られ、耕作地が分断されて作業効率が著しく落ちる。
要の木はどの区画にも残るが、そもそもここは、人間ではなく彼らの土地だ。
伐採して今際の際に死の呪いを掛けられる恐怖ではなく、先住民に対する畏敬の念を以て残すよう、パテンス市建設業組合から助言された。
ネモラリス難民は素直に従ったが、要の木が生活の邪魔にならないと言えば、嘘になる。
大森林から遠い役人たちは、簡単に「伐れ」と言うが、実際に精霊の声を聞いた者たちは、首を縦に振れるものではなかった。
特に、秦皮の木と化した主神フラクシヌスを信仰する者は、要の木を傷付けるなど、とんでもないと言う。
若い研究者は、不安がる子供らに厳しい現実をつきつけた。
「その道具は【編む葦切】学派じゃなくて【渡る雁金】学派のだから、職人さんは作り方を知らないって言ってたわ」
「だから、代わりに【魔除け】の柵を作ってもらったのよ」
力ある民の元看護師が、妹の説明に明るい声で付け加えた。
男子中学生が、もどかしげに聞く。
「おばちゃんは作れないの?」
「ここじゃ無理よ」
「何で?」
「魔法陣を織り込んだ布に魔力を貯められる宝石を付けるんだけど、魔法の色糸が何種類も、たくさん要るし、銀の糸や宝石は高いし、織機もないし……ウチには全部揃ってたけど、空襲で焼けちゃったからね」
「寄付とかで全部揃ったら、作れる?」
「材料自体、すっごく高いの。それに、この子の世話と家事があるし、何カ月も集中して作業するなんて無理よ」
難民キャンプには、できない理由と諦めしかない。
ネモラリスが平和なら、子供を保育所に預け、人を雇って家事を頼んで、仕事に集中できるだろう。
……いや、そもそも、こんな問題に直面しなかったのだ。
「一個作ンのに何カ月も掛かンの?」
「そうよ。この食卓の半分くらいの大きさの布で、魔力を籠めながら、複雑な魔法陣を織り込むからね。一日に二センチか三センチくらいしか進まないのよ」
少年二人だけでなく、その父も嘆息した。
「おばちゃんが寝てる間、誰かに手伝ってもらっても無理?」
「一人の魔力で織り上げなきゃいけないのよ。【編む葦切】学派の道具や呪符には、作る人と魔力を籠める人が別でもいいのが割と多いんだけど、【渡る雁金】学派の道具はそうじゃないの」
精霊の声が届く範囲に近付きさえしなければ、高価で作成が難しい呪具など必要ない。
呪医セプテントリオーは、何の気なしに質問した。
「まだ、精神汚染の被害は出ていませんよね?」
一瞬で空気が凍り、重い沈黙が降りる。
少年二人が泣きそうな顔で、近所のおばちゃんと巡回の呪医に視線を彷徨わせ、【渡る雁金】学派の若い研究者が、重くなった口を開く。
「直近は去年の秋……第九区画で二人……犠牲者が出ました」
呪医セプテントリオーと子供たちが、同時に息を呑む。
「それで、私に何か対策して欲しいって相談が来たんです」
「すみません。そんなことがあったとは全く……」
「怪我や病気じゃありませんし、呪医方に連絡がいかなくても仕方ないですよ」
自嘲を含むどこか投げ遣りな声が返った。
……それで、徽章を服に隠していたのか。
呪医セプテントリオーは、食卓の下で拳を握った。
「他の区画でも、木の傍でぼーっとしてる人が魔獣に食べられたって言う話が、ちょこちょこあるみたいで……でも、【魔除け】の柵ができてからは……ないと思います」
元看護師が【操水】で二杯目の香草茶を淹れて言った。巡回の呪医に説明する体だが、妹を慰める声だ。
「救援物資として、その呪具があれば何とかなりそうですか?」
「一枚で、大きな家を建てられるくらい高価ですから、万が一盗まれたら責任取れません。一番の対策は、近付かないコトですよ」
泣きそうな顔で微笑み、【渡る雁金】学派の研究者は、木製のマグカップを手に取った。
「柵の外でも声が聞こえたんなら、君はかなり感受性が強いみたい。なるべく近付かないでね」
中学生の少年は、言葉もなく、首振り人形のように頷いた。
「交代でーす!」
もう一人の現役看護師の声で、俄かに慌ただしくなった。
「はいはい、お前たち、集会所へ勉強しに行きなさい」
「三時になったら、ウチに集まっておやつ食べていいからね」
「ごちそうさまでした」
医療者たちは、大急ぎで診療所に戻った。
☆大森林から遠い役人たちは簡単に「伐れ」と言う……「1184.初対面の旧知」「1185.変わる失業率」参照
☆魔法の色糸……「1348.魔法の糸相場」「1365.火のない所に」「1386.ルブラの要望」、国際相場が値上がりした「1367.新たな取引網」「1368.素材等の需要」参照
※ 魔法陣を織り込んだ布に魔力を貯められる宝石/材料自体、すっごく高い
【送還布】の説明……「黒い白百合(https://ncode.syosetu.com/n5910dd/)」の「42.対策会議参照
使用例……「48.呪符発動」「49.魔物の力」参照
救助には、同様の呪具で逆方向に作用する呪具が必要だが、駅前の一等地に店舗を新築できるお値段。
☆【編む葦切】学派の道具や呪符には、作る人と魔力を籠める人が別でもいい……「0139.魔法の使い方」「0951.魔法の必要性」「1186.難民支援窓口」参照




