1591.区画間の格差
医療者たちに渡した【無尽袋】の中身は、所謂「救援物資」ではない。
難民キャンプではなかなか作れない手の込んだ料理や、日持ちする菓子、品質のいいタオルやシーツ、歯ブラシなどの日用品、使い勝手のいい文房具などだ。
パルンビナ株式会社の役員マリャーナが毎回、持たせてくれる。休む間もなく重責を負う者たちに僅かでも安らげる一時を……との心尽くしだ。
こんなささやかなモノでも、妬みを買いかねない。
他の難民の目につかぬ場所でしか渡せないのが、遣る瀬なかった。
翌日は、隣の第二十九区画へ跳んだ。
昨日の診療報告は、ファーキル少年がメールで、ボランティアセンターに連絡してくれた。同センターは先月、平野部のテント村と森の間に丸木小屋が完成し、正式に開所したばかりだ。
今日は、モルコーヴ議員らが現地へ跳び、昨日のカルテを撮って、アミトスチグマ王国医師会へ送信する予定だ。
要望や困り事の聞き取りも、区画数と各面積の増加で、一日では巡回しきれなくなった。亡命議員も、力ある民と力なき民が組んでシフトを作成し、難民キャンプを手分けして回る。
魔獣に襲われる危険を顧みず、政治家自ら足を運ぶのは、難民を見捨てはしないと、身を以て示す為だ。
祖国に帰還する希望を繋ぎ、ネモラリス憂撃隊など、アーテル共和国への復讐に燃える組織に参加させない為でもある。
亡命議員の活動が、報道や大使館を通じてどの程度、本国の臨時政府に伝わったか不明だ。
少なくともこの二年、ネモラリス臨時政府の政治家や官僚が、アミトスチグマ王国政府の開設した難民キャンプに足を運んだ例はなかった。
首都クレーヴェルを掌握したネミュス解放軍が、人を寄越したと言う話も、耳にしない。
どちらの勢力も、そんな余裕がないのだろう。
お陰で、魔哮砲の使用に反対し、一時は囚われの身となった亡命議員らが、安全に活動できる面もある。
呪医セプテントリオーは、何とも言語化し難い思いで嘆息した。
難民キャンプ第二十九区画では、診療所に近い集会所の前で、歌手オラトリックスたちが【道守り】の準備中だ。アミエーラとアルキオーネの姿も見える。
「呪医、おはようございます」
「今日一日、よろしくお願いします」
患者を重症度で選別する科学の看護師たちが、頬を緩めて挨拶する。呪医セプテントリオーも笑顔で返し、呪歌の歌い手たちに声を掛ける暇もなく診療所に入った。
診療所前には、既に数十人もの患者が並び、区画内のあちこちから集まって次々と列に加わる。
この第二十九区画に常駐する医療者は、【飛翔する梟】学派の呪医一人と、科学の現役看護師二人、力ある民の元看護師一人だ。
ここの呪医は、魔法薬と術を併用し、慢性疾患以外の病と外傷ならば、比較的早く癒せる。慢性疾患も、平時ならば時間を掛ければ大抵癒せるが、ここでは魔法薬の素材が不足し、有り物を使って対症療法しかできないと言う。
また、魔法使いの元看護師と歌手オラトリックスの指導で、呪歌【癒しの風】を使える住民が多く、呪医セプテントリオーが呪歌用テントに行くまでもなかった。
数少ない「巡回医療者の負担が少ない区画」のひとつだが、常駐する医療者の負担は重い。
セプテントリオーは外科領域しか手伝えないが、少しでも彼らの負担を減らし、難民の苦痛が除かれるよう、力を尽くす。
「いつも通り、呪医は骨折の患者さんをお願いします」
「わかりました」
「有難うございます。魔法薬の素材があればいいんですが、私の【骨繋ぐ糸】では患者さんの苦痛が大きくて……すみません」
「いえいえそんな、私にはこのくらいしかできませんから、今日は病気の治療に専念なさって下さい」
隣の第二十八区画では、昼食を摂る時間すらなかった。
この第二十九区画では、医療者が交代で一時間の昼休みを取れる。
支援者マリャーナはそれも把握済みで、セプテントリオーと休憩する組と、別の組に分けて【無尽袋】を持たせてくれた。
科学の現役看護師の一人と、力ある民の元看護師と一緒に昼休みを取る。
元看護師宅に現役看護師の家族を呼び、ちょっとした食事会が始まった。
元看護師の家族は彼女の娘、夫を失った妹と幼い甥の計三人。現役看護師の家族は息子二人だ。
今回、マリャーナが持たせてくれたのは、ミートパイと魚肉団子の揚げ物、野菜ジュース、チョコ掛けドーナツ、子供四人分のノートと鉛筆、消しゴム、質のいいタオルだった。
「スッゲぇ! 久々に見た!」
小学四年か五年くらいの少年が黒い瞳を輝かせ、ドーナツが入った籐籠に手を伸ばす。
父親の現役看護師が、息子の手首を掴んだ。
「おやつは後だ」
「もっとよく見たかっただけだよ」
「後で見せてもらえよ」
中学生くらいの兄が、大人びた表情で呆れてみせる。
元看護師の妹が幼い息子を抱き、同じく伸ばされた小さな手を押えて言う。
「ここなら誰も取らないから、お勉強の後で食べようね」
「見るだけでもダメ?」
小学生の少年が、顔馴染みのおばちゃんに甘えた声で食い下がる。
「お昼ごはん、終わってからにしようね」
「いつも有難うございます」
元看護師の高校生くらいの娘が、慣れた手つきで文房具とタオルを集め、奥の部屋へ片付けに行った。
ドーナツは一個ずつビニール袋に包まれ、布張りの籐籠に詰めてある。ドーナツに掛かったチョコには、色とりどりの砂糖が掛けられ、可愛らしい。全体に、いかにも子供が喜びそうな外見だ。
籠が不要なら、交換品にも、街のバザーでの売り物にもできる。
ミートパイと魚肉団子の揚げ物は、一人分ずつ白い紙箱に入れてあった。
逸早く蓋を開けた兄弟が歓声を上げる。
「おっちゃん、有難う!」
「どう致しまして。マリャーナさんにお伝えしますね」
「マリャーナっておばちゃん、スッゲー太っ腹だなぁ」
幼児はフォークを渡された途端、脇目も振らず魚肉団子を頬張った。大人と他の子供たちも、難民キャンプでは作れない揚げ物と、手の込んだ料理を口に運ぶ。
夢中で食べるどの顔にも、喜びが溢れる。
隣の第二十八区画には、そんな余裕さえなかった。
……医療者の……診療科目の偏りが、もう少し何とかなればいいのだが。
大森林で手に入る素材には限りがあった。
例えば、骨折を癒す魔法薬の素材は、寒冷な高山でしか手に入らない。【青き片翼】学派の術【骨繕う糸】ならば、一瞬で骨折を復元できるが、術の身体的な制約が厳しい為、使い手は少ない。
病気も、慢性疾患の薬が全く足りないと聞いた。せめて、魔法薬の素材が充分あれば、薬師が担当する区画の負担を減らせる。
呪医セプテントリオーには、どうにもできない問題が山積みで、胸が痛んだ。
☆カルテを撮って、アミトスチグマ王国医師会へ送信……「1586.呪医の苛立ち」参照
☆亡命議員の活動……「415.非公式の視察」参照
☆魔哮砲の使用に反対し、一時は囚われの身となった亡命議員ら
反対「0241.未明の議場で」「247.紛糾する議論」「248.継続か廃止か」参照
軟禁「253.中庭の独奏会」「259.古新聞の情報」「260.雨の日の手紙」参照
☆呪歌用テント……「1590.話す暇もなく」参照
☆【骨繋ぐ糸】では患者さんの苦痛が大きく……「720.一段落の安堵」参照
※ 痛くないのは【骨繕う糸】……「739.医薬品もなく」「872.流れを感じる」参照
☆骨折を癒す魔法薬の素材は、寒冷な高山でしか手に入らない……「1336.魚屋が来ない」参照
▼術と魔法薬を併用する呪医【飛翔する梟】学派の徽章




