1590.話す暇もなく
「せ、呪医! こ、この間、あ、有難うございました!」
男性が声を裏返らせて駆け寄った。見覚えはあるが、今はそれどころではない。
難民キャンプ内で魔獣による咬傷事故が発生し、呪医セプテントリオーは現場での対応を終えて診療所に戻った直後、声を掛けられたのだ。
自警団の若者らが、即死を免れた三人の患者を【跳躍】で運んで戻る。傷は術で癒せたが、失血による衰弱と感染症への警戒で、当面は入院が必要だ。
「こちらこそ、頑張っていただけて助かりました」
慌ただしく、話す暇もない。どうにか一言だけ返し、患者らと共に駆け込んだ。
彼の妻は先週、出産したばかりで、新生児と共にまだ入院中だ。
夫婦揃って力なき民。住居に割り当てられた丸木小屋に帰れば、家事の全てが重労働だ。複数の世帯が共同生活を送る為、助け合える半面、ゆっくりできる環境ではない。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
第二十八区画を担当する薬師が【白き片翼】学派の【見診】を掛け、新規患者三人の状態を確認する。
呪医セプテントリオーはその間、カルテに事故発生状況と、受傷時の状態、実施済の処置を書込んだ。
剣呑な空気に中てられたのか、赤ん坊が泣きだし、若い母親がおろおろあやす。
先程の男性の妻だ。
育児支援の名乗りを上げた難民のベテラン主婦が、あやし方のコツを教え、まだ名前の決まらない子を受取って実演する。
「あらぁー、びっくりしちゃったねー、よしよし」
産科の呪医は、他の区画へ巡回中だ。
一人のお産に時間が掛かる場合が多く、当分の間、この第二十八区画へは来られない。
セプテントリオーは外科領域なので、軽傷患者が多い日は数区画回れる日もあるが、流石に一日で全ての区画は一巡できない。
各区画が更に拡張し、現在は一区画に約八千人から一万四千人余りが暮らす。
この第二十八区画に常駐するのは、【思考する梟】学派の薬師だ。家族とともに逃れて来た年配の女性で、子育ての経験があった。
薬師が、同じく常駐する科学の看護師に新規患者の受け容れを頼み、薬品棚を開ける。在庫を指差呼称して確認し、呪医セプテントリオーに向き直った。
「まだ感染の兆候は出ていませんが、抗生物質の点滴は在庫が充分ありますし、ここは点滴できる看護師さんも居ますから、何とかなりますよ」
「それでは、経過観察、よろしくお願いします」
患者らに聞かせる為、呪医セプテントリオーは、殊更に安心した声を出してみせた。薬師もそのつもりで、把握済みの在庫を確認したのだろう。
診療所の空気が緩み、赤ん坊が泣き止んだ。
そうこうする間にも、魔法薬の処方を待つ行列が伸びてゆく。
【青き片翼】学派の巡回呪医が来たとの知らせが走り、自力で歩ける怪我人が二本目の行列を作った。
一万人前後の難民に対して、診療所は一箇所しかない。
人手不足は当然で、常駐する医療者は専門外の分野も診なければならず、負担は相当なものだ。
セプテントリオーら、ネモラリス人医療者の有志が十数人でシフトを組んで巡回し、アミトスチグマ王国医師会と、最寄りのパテンス市医師会も、健診車や巡回診療車で来てくれるが、充分とは言えなかった。
保健師も不足し、健康指導が充分行き渡らず、防げた筈の怪我や病気も多い。また、指導を受けたところで、電気、ガス、水道などのない難民キャンプでは、力なき民には実行できない対策が多かった。
産科は、難民キャンプ全体で呪医一人、科学の医師三人、引退した高齢の元医師二人、助産師は五人しか居ない。
彼らの住居は定められたが、お産のある所へ駆けつけてもらう為、留守がちだ。
一ケ所に集約して妊産婦が来院する方式にすれば、体制を手厚くできる。だが、力なき民には交通手段が徒歩しかなく、力ある民も知らない場所には【跳躍】できない。
それでも、難民キャンプの出生数はじわじわ上昇中だ。
流入減少と死者を差し引いても、人口は増えつつある。
「呪医、テント、いっぱいになりました」
「有難うございます。すぐ行きます」
元看護師の難民に呼ばれ、呪医セプテントリオーは、材木で挟まれた男性の手を【骨繕う糸】で癒し、外に出た。
一区画当たりの人口は増えたが、診療所を中心に丸木小屋を増やしていった為、近くには入院病棟などを建増しできない。
急性期を脱し、安静だけが必要な患者専用の入院病棟が、畑の近くに作られた。
こちらは、結婚や家庭の事情などで退職した元看護師たちが看てくれる。何かあれば、診療所の現役医療者に連絡する決まりだ。
その安静病棟の隣には、呪歌用のテントがある。
重症患者の表面だけが癒えて、傷がわからなくなるのを防ぐ為の【防音】、それに【魔除け】と【耐暑】【耐寒】が刺繍された頑丈なものだ。
難民も、力なき民を含め、呪歌【癒しの風】の使い手が増えた。
だが、魔力の弱い者や【魔力の水晶】で行使する力なき民でも治せるのは、ほんの軽い火傷や擦り傷など、何もしなくてもよさそうな極軽い外傷だけだ。
割れた爪を復元できるそれなりの使い手は、思ったより多くないらしい。
まず、元看護師が診て、ここと診療所に振り分ける。
テントに集められるのは、軽傷だが、難民自身では癒せない患者だ。傷の洗滌など前処置は、力ある民の元看護師たちが済ませてくれる。
今日、最初の【癒しの風】対象の患者は二十人くらいだ。
「お待たせしました」
「あー、いえいえ、とんでもない」
挨拶もそこそこに【癒しの風】を謳い、体表の外傷をまとめて治した。
再び【跳躍】して診療所に戻り、骨折などの重傷患者の治療に当たる。
診療所で重傷患者を五、六人癒す間にも、離れた呪歌用テントでは、元看護師たちが、患者を重症度に応じて選別し、前処置を済ませて、また呪医を呼びに来る。
その間も、重症度の高い患者は、次々と診療所に運び込まれる。
日没近くまで、息つく暇もなかった。
日が傾く頃には安全の為、余程の重傷でない限り、帰宅する。
最後の患者を送り出した後、薬師宅に診療所と安静病棟の担当者が集まって報告会をする。
「パルンビナ株式会社のマリャーナさんから、みなさんに差し入れです」
「いつも有難うございます」
「いえ、私は運ぶだけですから。今回の分は晩ごはんにどうぞとのことです」
セプテントリオーは夏の都に戻らねばならず、【無尽袋】を渡して引き揚げた。




