1589.最初から難民
産婦のいきむ声が、難民キャンプ第二十八区画診療所に響く。
「赤ちゃん、見えてきましたよー、ハイ、もう一息、頑張ってー」
年配の産科医が、昨夜初めて対面した産婦の腹をさすり、明るい声で励ます。今朝は【家守る鸛】学派の術【こちらを向いて】で、逆子を正常な向きに変え、絡みかけた臍の緒を解いた。時刻は既に昼前だ。
呪医セプテントリオーは、大出血に備えて傍らに控える。
間もなく父親になる夫が、衝立に囲まれた寝台脇で跪き、小柄な妻の手を言葉もなく握りしめた。
……何度立ち会っても、慣れないものだな。
セプテントリオーが傷を癒す【青き片翼】学派を修め、呪医となって四百年余りになる。
帝王切開や不測の事態への備えとして、数え切れないお産に立ち会ってきた。
それでも、陣痛に苦しむ産婦を見ていると、男性の自分まで、どこか痛むような心地がしてくるから不思議だ。
産婦の額に玉の汗が浮かぶ度、ボランティアの女性が励ましの言葉を掛け、清潔なタオルで拭う。
パテンス神殿信徒会の者たちは、よく診療所を手伝ってくれる。彼らの支援がなければ、物心両面で、立ちゆかなかっただろう。
この難民の産婦は、産科と外科が同時に立ち会う幸運に恵まれた。
難民の医療者を中心として、それなりの医療体制が構築され、難民キャンプ内の死者数は逓減した。だが、まだまだ不充分だ。
産科領域の呪医は、平和な頃のネモラリス共和国でも少なかった。
産科の【家守る鸛】学派もまた、術の身体的な条件が厳しく、欠損部位を再生する【有翼の蜥蜴】学派と同等か、それ以上に稀少だ。
アミトスチグマ王国に設けられた難民キャンプで、常駐する【家守る鸛】学派の呪医は彼女一人だ。
対して、難民キャンプで暮らすネモラリス人は四十三万人余り。女性を半数と仮定し、出産可能な年齢層に絞っても、十万人は下らないだろう。
科学の産科医も数人居るが、設備のない診療所でできることは限られる。
多くの場合、難産でも、専門外の医療者が立ち会わざるを得ない。
母子ともに残念な結果を迎えたことが少なくなかった。母か子だけが逝った場合も含め、力及ばなかった医療者は、遺族から責められがちだ。
頭では「誰も悪くない」とわかっても、行き場のない嘆きと悲しみが溢れてやまないのも、人情として充分、理解できる。
空襲で何もかも奪われ、辛うじて残った家族と命懸けで逃れてきた者は元より、天涯孤独の身になった者同士がこの地で新たな家族となって、これからという時にささやかな希望を打ち砕かれたのだ。
医療者の辛さも、遺族の悲しみも、痛い程わかる。
それだけに出産の立ち会いは、負傷者の治療とは別の緊張感があった。
パテンス神殿信徒会のボランティアは、第三者であるが故、遺族の悲しみに寄り添い、その心を支えることも、救えなかった医療者の無念と苦しみを受け止め、癒すことも、矛盾なくできる。
彼らの支援がなければ、魔法の医療者は職種を問わず、無理を押してでも、帰国したかもしれない。
あるいは、思い切って祖国と難民キャンプを捨て、戦争の影響が少ない第三国に移住した可能性さえある。
公式な調査がない為、定かではないが、最初からこの苦境を見越して、第三国へ逃れた医療者が居ないとは言い切れない。
課される身体的条件が厳しい為、どこの国でも、あらゆる診療科目の呪医が不足する。移住先の人々が助かるのだから、祖国を捨てる選択を一概に責めることなどできなかった。
産科のベテラン呪医が寝台を回り込み、しっかり繋がれた夫婦の手に自分の手を重ねた。力ある言葉で紡がれるのは、もう何度も出産の場で耳にした【精力移送】の術だ。
「あなた、もうすぐお父さんになるんですからね、しっかりね!」
詠唱を終えた産科医が夫を励ましたが、彼の顔はみるみる青褪め、言葉もなく歯を食いしばる。代わりに夫の生命力を受取った産婦の顔色が、僅かによくなった。
一応、毎日何かしら口に入るようになったとは言え、難民の栄養状態は総じて良くない。それだけでも、平和な頃と比べ、出産時の危険が跳ね上がるのだ。
呪医セプテントリオーは次に備え、先程まで産科医が居た場所に移動した。
小声で【白き片翼】学派の【見診】を唱え、そっと腹に触れる。
産道の裂傷に伴い、血の臭いが、衝立で囲まれた空間に満ちる。
新生児の頭部は出たが、肩が引っ掛かり、先に進まなくなった。
「もうちょっとよー、赤ちゃん、もう肩まで来たよー、お母さん、頑張ってー」
ベテラン産科医は、危機的状況でも落ち着いた声で、初産に臨む産婦を励まし、外科担当のセプテントリオーに視線で合図を送った。
「身のほつれ 漏れだす命 内に留め
澪標 流れる血潮 身の水脈巡り……」
外科領域の呪医セプテントリオーは、【止血】の呪文を唱え、結びの言葉の手前で止めた。
産婦の顔を見ると、この激しい痛みの中でも、まだ意識を保ち、新しい命をこの世に送り出そうと、命懸けで奮闘を続ける。
セプテントリオーにはない器官の痛みだが、【見診】の効果で手に取るようにわかる。術者に痛みが移るワケではなく、本当の意味では「産みの苦しみ」を感じられないが、掌に汗が滲んだ。
産科医が早口に力ある言葉を唱え、子の肩を外界に導き出した。
この世での力強い第一声が、難民キャンプの診療所に響く。
昨夕から続く戦いが終わったのだ。
セプテントリオーが【見診】で注視する中、大出血が始まる。
「お母さん、赤ちゃん、無事に産まれましたよ!」
ボランティアの女性が顔を輝かせて声を掛けると、衝立越しに拍手が起こり、意識を失いかけた産婦が弱々しく微笑んだ。父親になった夫は放心状態だが、妻と繋いだ手は放さず、生命力を融通し続ける。
呪医セプテントリオーは、小さくなった腹に手を触れ、結びの言葉を唱えた。
「……固く閉じ 内に流れよ」
栓をしたかの如く、即座に出血が止まった。
セプテントリオーは、産科医が胎盤などを取り除くのを待ち、用意された滅菌済みの水を起ち上げて【癒しの水】を唱える。
「血は血に 肉は肉に 骨は骨に あるべき姿に立ち返れ
損なわれし身の内も外も やさしき水巡る
生命の水脈を全き道に あるべき姿に立ち返れ」
再び【見診】を唱え、危機を脱したことを確認し、産科医に頷いてみせた。
産科医は、少なくとも五人以上産んだベテランの母親でもある。新生児の状態を確認しながら、手際よく産着で包んだ。初めて人の手に抱かれ、新生児がすぐに泣き止む。
産科医が、母親の隣に赤ん坊を寝かせて言う。
「二人とも、お疲れ様です。体力の消耗が激しいので、お母さんは最低三週間、お父さんは明後日まで、ここに入院して、ゆっくり身体を休めて下さいねー」
「お写真、明日持ってきますねー」
ボランティアの女性が、タブレット端末で新たな母子を撮る。
呪医セプテントリオーは、難民としてこの地で生を受けた子の行く末を案じずにはいられなかった。
☆パテンス神殿信徒会……「738.前線の診療所」「1176.故郷の情報を」参照
☆【家守る鸛】学派……「1506.潜在需要発掘」参照
☆術の身体的な条件/欠損部位を再生する【有翼の蜥蜴】学派……「0108.癒し手の資格」「717.傲慢と身勝手」「1506.潜在需要発掘」参照
☆それなりの医療体制……「858.正しい教えを」「863.武器を手放す」参照




