1587.統計から見る
今日は、セプテントリオーに割当てられた休日だ。難民キャンプの診療所へ行くのは禁じられた。
窓の外では、四月の陽気に蝶が舞い、庭に咲く色とりどりの花を巡る。
セプテントリオーは独り、支援者マリャーナの邸宅で、与えられた居室に籠り、統計資料と向き合った。
ラクエウス議員ら亡命議員たちに「医学的な観点から、死者を減らす助言」を求められたが、緑髪に覆われた頭を抱えるばかりだ。
アミトスチグマ王国政府は魔哮砲戦争が開戦した年の三月、ネモラリス人向けの難民キャンプ開設を表明した。
広大な森林を開拓し、用地を確保する。
樹木を伐採し、拓いた土地に道を造り、井戸を掘る。水が出た場所の近くに診療所用の丸木小屋を建て、その周辺に住居用の丸木小屋を増やした。住居が一定軒数に達すれば、道を延伸し、新たに井戸を掘って区画を拓く。
これ程までに大規模な支援は、他にない。
開設初年度は、かなりの速度で拡張が進んだ。
アミトスチグマ建設業組合が、ボランティアで作業に当たったが、人手が全く足りず、建設作業には素人の難民自身も携わった。
当時は作業中の事故が多発したが、一年を過ぎる頃には件数が逓減した。
昨秋には、ネモラリス共和国内で予定された仮設住宅の建設が完了。トポリ市などの復興事業で、国内避難民の帰還や就労が進んだ。
比例して、アミトスチグマ王国への難民の流入が減少。テント村で待機中の難民を中心に一部が帰国した。
森林内には現在、三十四区画あり、第三十五区画が完成すれば、テント村が解消される。
魔獣に襲われる人数は、あまり変化がなかった。
アミトスチグマの大森林は、元より人の領域ではない。魔獣や野生動物の棲み処を破壊して、急速に人の領域を造れば、こうなって当然だ。
自警団の組織と、難民の医療者の再配置など、対策が進むにつれて死亡例は減少した。
……建設作業中の事故を防ぐには、専門の訓練と、安全教育が必要だ。
セプテントリオーは、ゼルノー市立中央市民病院での勤務中、外科部唯一の呪医として、多数の労災事故を診た。
救急搬送に付き添う現場責任者らの青褪めた顔がまざまざと蘇り、胃が痛んだ。
難民の中には、ネモラリス建設業協会の現役会員や、引退した元職人も居る。だが、難民に対して、専門家は圧倒的に少なかった。
魔獣などからの防護を急ぐあまり、教育や訓練より作業を優先して死傷者が絶えない。
ネモラリス共和国は、専門家の不足で半世紀の内乱からの復興も道半ばだったのだ。この度の空襲からの復旧・復興作業にも多数の人手が必要で、難民キャンプまで手が回る筈がなかった。
難民キャンプ内の医療者らは物資不足の中、限られた人員でギリギリの努力を続ける。
呪医セプテントリオーは、マリャーナ宅から週に六日、難民キャンプに通い、各区画の診療所を巡回する。
アミトスチグマ王国医師会や、難民キャンプ最寄りのパテンス市医師会の有志らも、巡回診療車で訪問するが、到底、足りるものではない。
魔物や魔獣の対策は、難民キャンプで暮らす【編む葦切】学派の呪符や呪具の職人、【巣懸ける懸巣】学派の建築家らが術で住宅の守りを固める。
難民には、力なき民が圧倒的に多く、住宅に掛ける術は、魔力不足のせいで効果が限定的だ。
自警団が組織されたが、【急降下する鷲】学派などを修めた魔法戦士は、ほぼ居ない。
アミトスチグマ王国軍は、国境警備と自国民の保護で忙しかった。
テント村しかなかった頃は、少数の部隊を派遣して守ってくれたそうだが、丸木小屋の区画がある程度増えてからは、国連平和維持軍と交代して撤収した。
難民キャンプに派遣されたのは、国連平和維持活動で組織された「国連ラキュス湖東平和維持隊」の内、ポゴニア王国とポリキクニス王国の部隊の一部だけだ。両国は、アミトスチグマ王国と親交が深い。
主な活動が、湖東地方の紛争地域に於ける人道支援活動の護衛、救援物資の輸送援助、治安維持の為、アミトスチグマ王国には多くを割けない。
アミトスチグマ王国自身、平和維持隊として、ノチリア共和国とジゴペタルム共和国の国境付近に派遣した部隊を呼び戻せないのだ。
セプテントリオーが修めた【青き片翼】学派は、術のみで外傷を癒す外科領域が専門だ。事故や捕食などの情報に目が行きがちだが、それらの「予防」は医術の手に負えることではない。
凍死者は出さずに済んだが、凍傷を負う者は多かった。
その凍傷患者は、すべてが力なき陸の民だ。魔力を持つ者と、持たざる者の格差をハッキリと数値で突きつけられ、愕然とする。
針子のサロートカが指摘した通り、防寒着の不足が原因のひとつだ。これも予防に関しては、医療系の魔法には出る幕がない。
難民自ら、寄付された毛糸や古着で手袋などの防寒着を作り、二度目の冬は、大幅に患者が減った。
それでも完全に防げないのは、内陸部の冷え込みが、ネーニア島やネモラリス島とは桁違いに厳しいからだ。
重度の凍傷でも、患部の組織が完全に死ぬ前なら、魔法で即座に復元できた。魔法薬が充分あれば、痕を残さず三日程度で癒せる。
……薬草園の拡張と、各診療所への魔法薬の補充くらいか?
アサコール党首らの調査によると、難民キャンプ内には、薬草栽培の専門家がサフロールしか居ないらしい。
農作業の【畑打つ雲雀】学派の術者や、職業農家は医療者の十分の一も居なかった。地方は空襲被害が少なかったことに加え、農家の人々には、土地を捨てて外国へ長期間避難する決断ができなかった為だ。
現にゼルノー市の農村部であるゾーラタ区は、一時的に国内避難した人々が、政府の立入制限を無視して、早々に帰宅してしまった。
それでも、家庭菜園の経験者が中心となって、難民キャンプ内で畑を開墾した。知識、技術、農具はいずれも足りず、遅々として進まない。
やっとの思いで育てた作物は、病害虫や野生動物の食害などに遭いがちだ。収穫を得られなかった畑は、一枚や二枚で済まなかった。
それでも、僅かに得られた芋や南瓜などの作物が、難民たちに希望を与えた。
二年目には、畑の面積が増え、対策が半歩前進し、最初の年より収穫が増えた。
栄養失調を完全に克服できる収穫には程遠いが、自分たちの手で、僅かでも食料事情を改善できた喜びは大きい。
……湖の民への緑青飴の配布と、診療所での栄養剤の備蓄くらいか?
呪医セプテントリオーは、難民キャンプでの死傷防止に【青き片翼】学派が貢献できることは、ないような気がした。
☆井戸を掘る……「927.捨てた故郷が」「929.慕われた人物」参照
☆トポリ市などの復興事業……「1120.武器職人の今」「1175.役所の掲示板」「1246.伝わった流行」「1257.不備と不手際」「1330.連載中の手記」「1342.支援に繋ぐ糸」「1403.警備員と再会」「1474.軍医の苛立ち」「1514.イイ話を語る」参照
☆自警団の組織……「928.呪歌に加わる」「929.慕われた人物」参照
☆難民の医療者の再配置……「858.正しい教えを」「863.武器を手放す」参照
☆薬草園の整備/薬草栽培の専門家がサフロール……「738.前線の診療所」「739.医薬品もなく」「0986.失業した難民」参照
☆専門家の不足で半世紀の内乱からの復興も道半ば……「0005.通勤の上り坂」参照
☆医療者らは物資不足の中、限られた人員でギリギリの努力……「739.医薬品もなく」参照
☆凍死者は出さずに済んだ……「805.巡回する薬師」「0986.失業した難民」参照
☆針子のサロートカが指摘……「739.医薬品もなく」参照
☆ゾーラタ区は(中略)政府の立入制限を無視して早々に帰宅……「530.隔てる高い壁」「537.ゾーラタ区民」参照
☆難民キャンプ内で畑を開墾……「1368.素材等の需要」参照
☆湖の民への緑青飴の配布……「0986.失業した難民」参照
※余談……安全教育が必要云々
「KY活動」指差呼称「ヨシ!」とかの中身を教えること。
難民キャンプでは「(なんだかわかんないけど)ヨシ!」で例の猫案件が多発中。くれぐれもご安全に(震え声)




