1586.呪医の苛立ち
呪医セプテントリオーはげんなりした。
半世紀の内乱時代から継続して、ラキュス湖の水位が下がり続けた原因のひとつがわかった為だ。
……【水呼び】の呪歌は、最低でも月に一度は謳わねばならぬのに。
あの日、アル・ジャディ将軍が偶然、居合わせた。ネモラリス政府軍指揮官の苦り切った顔が蘇り、セプテントリオーは胃が痛んだ。
マガン・サドウィスは、自ら望んで島守になったにも拘らず、どうやら、その役目を一度も果たさなかったらしい。
単に島守の立場を保身に利用したに過ぎない。
だが、ラキュス・ネーニア家の血族なら、誰でも島守になれるワケではない。
交代しない限り、死んでもオーストロフ島から一歩も出られない制約の件はともかく、力が足りなければ、島守の役目を果たせないからだ。
……一人でも謳える力を持ちながら、何故、あんなにも頑なに謳わないのだ?
アル・ジャディが痺れを切らして謳った際、セプテントリオーも力を貸した。
桁違いに強い魔力を持つ彼と二人掛かりでも、術の負荷が大きく、セプテントリオーは立っていられない程だった。
……私一人では、絶対に謳えない。
マガン・サドウィスが、持って生まれた恵まれた力を使わない理由は何か。
呪医セプテントリオーは、オーストロフ島から、難民キャンプの支援に戻って以来、折に触れて考えたが、全く想像もつかなかった。
マガン・サドウィスが死亡すれば、彼の【魔道士の涙】は、ラクテア神殿に捧げられ、女神ラクテアの碧玲の糧となる。
代わりに前任者が呼び戻されるだろうが、アル・ジャディ将軍も、流石にそれを実行する気はないようだ。あれが何度目になるか聞かなかったが、怠惰な島守に代わって【水呼び】の呪歌を謳って帰った。
島守マガン・サドウィスの姉であるシェラタン当主をはじめとして、【水呼び】を謳い得る親族が肩代わりしてしまうから、それに甘えるのかもしれない。
だが、渇水寸前まで放置してさえ、あんな状態だったのだ。
……一体、どこでどう躾を誤れば……いや、生来の性格がすべてなのか?
我慢比べで、ラキュス湖の畔に住まうすべての生きとし生けるものを危険に曝していい筈がなかった。
果たして、湖水の減少が、湖畔諸国の人々の不安を煽ると理解した上での怠惰なのか。
……その不安をも、何かに利用しようと……? いや、そんな……まさか。
呪医セプテントリオーは、暗い方向へ行こうとする思考を断ち切り、統計グラフに意識を引き戻した。
難民キャンプ開設から印暦二一九三年三月中旬までの症例に関するもので、アサコール党首たちがデータを収集し、ファーキル少年たちがまとめたものだ。
約二年前の難民キャンプ開設初期は、森に近い平野部に設営されたテント村しかなく、魔物や魔獣による外傷の治療が大部分を占めた。
アミトスチグマ王国の医師会は、少なくとも正規経路で難民キャンプ入りしたネモラリス難民については、全員分のカルテを作成済だ。
力なき民は全員、ザーパット脳炎の予防接種を受けた。
力ある民も含め、全員を対象に【明かし水鏡】でワクチン歴を確認し、未接種のものは個別に実施した。
健康な者も、その時に電子カルテを作られたのだ。
呪医セプテントリオーは、説明を聞いてもよくわからなかった。
電子カルテとやらは、科学の医師や呪医ではなく、専門の係員が作るらしい。
勿論、医療者の指示で作り、診察終了の都度、医療者が入力内容を確認する。
呪医セプテントリオーは、クラピーフニク議員から説明を受けた際、科学文明を多く取り入れた国では、医薬分業だけでなく、そんなところまで分業するのかと感心した。
インターネットが繋がる場所なら、どこでも確認でき、他の病院に掛かっても、担当医に問合せれば、瞬時にカルテを取り寄せられると言う。
統計データも、紙のカルテより作りやすいらしい。
難民キャンプが大森林の奥地へ広がるにつれ、電波が届かなくなる。キャンプ内の診療所では紙のカルテだ。
当初はそれすらなく、メモ程度の簡易カルテしかなかった。
アサコール党首らが全てタブレット端末で撮影し、医師会に送信して電子カルテに反映してもらう。
カルテのある難民は、印暦二一九三年三月中旬時点で、四十三万人余りに上る。
魔哮砲戦争開戦の前年、ネモラリス共和国の人口は約六百万人だった。人口の約七パーセント……いや、難民キャンプ以外も含めれば、推計十パーセント前後が、国外流出したことになる。
ネモラリス共和国内では、空襲、魔物や魔獣、疫病の流行や医療の不足、栄養失調などで、どれ程の命が失われたのか。
まだ、公式発表はない。
呪医セプテントリオーの手にあるのは、アミトスチグマ王国医師会が電子カルテから取りまとめた統計情報だ。アサコール党首らが先月末に受領し、ファーキル少年が月別で分けて整理した。
セプテントリオーは四月初旬、その印刷物を渡された。
餓死者こそないが、栄養失調の者は多い。
夏場は食中毒が多い。冷蔵庫がない為だ。
力なき民が井戸水をそのまま飲用した水中り、毒草や毒キノコの誤食事故、介護食がないことで起きた誤嚥性肺炎、アレルギー対応食の不足による誤食事故など、飲食絡みの死者が年間を通して発生した。
いずれも、平和な頃のゼルノー市では、考えられない高頻度だ。
丸木小屋の建設作業で発生した事故、魔物や魔獣による捕食、難民同士の喧嘩、家族や恋人など親しい人物からの暴力など、外傷も多い。
運よく野生動物の肉が手に入っても、夏季は狩り場から戻る途中で腐敗が進行する。難民キャンプ内に持ち込まれた腐肉から魔物や雑妖が涌き、咬傷・捕食事故が発生したこともあった。
薬不足による持病の悪化や自殺などによる死亡は、年間を通して高水準だ。
冬季には、風邪や流感など感染症からの肺炎が、死亡数を押し上げた。
月数が経つにつれ、分娩時の死亡も増加する。
統計から見る死亡例の多くは、祖国ネモラリスが平和で、彼らが元の居住地に居たなら、発生しなかっただろうことが窺えた。
防げた筈の死をこれ以上増やさない為、どんな対策を講じればいいのか。
呪医セプテントリオーは、統計データ片手に溜め息を吐くしかなかった。




