1585.識字教室の案
クフシーンカは、ウェンツス司祭に促され、フェレトルム司祭と共に応接室へ移動した。
長椅子に腰を下ろしてすぐ、フェレトルム司祭が切り出す。
「学生さんには申し訳ありませんが、しばらく、翻訳のお手伝いはお休みさせていただこうかと思うのです」
「理由をお聞かせいただいてもよろしいですか?」
微塵も申し訳なさのない決定事項のような顔で言われ、ウェンツス司祭が困惑して聞く。
「先日、救援物資の中にアーテル版の共通語辞書がありました。ネモラリス版のものより、ITやコンピュータ、金融用語などの語彙が豊富です」
「しかし、バルバツム連邦の新聞は……」
「学生さんなら、大丈夫です」
大聖堂から派遣された若い司祭は、自信に満ちた声で、親子程も年齢差のある自治区の司祭を遮った。星道の職人クフシーンカは、ムッとしたウェンツス司祭に代わり、恐る恐る聞く。
「どう……大丈夫なんですの?」
ネモラリス共和国は、半世紀の内乱からの復興が立ち遅れ、科学文明の発展が遅れた。
国民には予備知識がなく、科学文明の最先端を走るバルバツム連邦の新聞記事を辞書片手に訳したところで、それが何を表すか、全く想像できないことが多い。
リストヴァー自治区で、タブレット端末に触れた者、インターネットを目にした者、実感を伴う理解を得た者は、区長など、ほんの一握りの特権階級だけだ。
その彼らとて、バルバツム人やアーテル人と同程度の知識はなく、完全には使いこなせない。
クフシーンカは何度か、区長や緑髪の運び屋らに見せてもらったことはあるが、手帳と同じ大きさでそれより遙かに薄いあの機械で、どれだけの事ができるのか、全体像を知らなかった。
あれをほぼ全国民が常に持ち歩き、子供でも使いこなす社会は、新聞を読んだだけでは、想像もつかないのだ。
インターネット云々だけでなく、経済の仕組みもかなり違う。
物々交換がなく、現金か電子決済が主流と教えられたが、その電子決済とやらがどんな仕組みか、説明されてもピンとこなかった。
銀行の窓口へ通帳を持って行って書類にサインしなくても、あちこちに設置された銀行の機械で預金を引き出したり、家に居ながらにして送金できるなどと、夢にも見られない。
その「どこでも送金できる仕組み」を使って、世界中のキルクルス教徒がリストヴァー自治区を支援する募金をしてくれたらしい。
有難くはあるが、正直に言えば、なんだかよくわからなかった。
言語の文法的な意味なら、クフシーンカやウェンツス司祭にもわかる。
だが、記事の内容は、バルバツム連邦と双璧をなす先進国であるバンクシア共和国出身のフェレトルム司祭でなければ、具体的に説明できないのだ。
「学生さんは、既に自力で聖典を読めますし、共通語の湖南語訳も、辞書を使えばかなり正確にできる方が多いからです」
「しかし……」
「学生さんは、暮らしに余裕のあるご家庭が多く、礼拝に毎回来られます。わからない箇所は礼拝後、少しずつ質問にお答えします」
ウェンツス司祭を遮ったフェレトルム司祭は、既に色々なことをかなり先まで決めてあるようだ。
「新聞の翻訳は、自習をお願いします。そして、その時間は、礼拝に来られない方々の識字学校をしたいのです」
つい先程、クフシーンカも仮設住宅を数棟回り、識字教室の必要性を痛感したばかりだ。
場所を借りる算段と、講師を頼む相手は漠然と思い描いたが、まだ、案をしっかり固めて検討できたワケではない。
「もう具体的な計画がお決まりですの?」
「関係者に確認しないことには、問題点も何もわからない段階ですが……」
クフシーンカが聞くと、フェレトルム司祭は待ってましたとばかりに身を乗り出して説明を始めた。
リストヴァー自治区の教会は、湖岸に近い東教区と、シーニー緑地以西の西教区にそれぞれ一箇所ずつしかない。
自宅が遠く、礼拝に出られない信徒が大半だ。また、礼拝堂は、十数万にも上る信徒を全員収容できる広さでもない。
足繁く通えるのは、近所に住むほんの一握りの信徒だけだ。
「しかし、小学校は自治区内に十二……リストヴァー大学附属も含めれば、十三校あります」
各小学校の校長に相談し、空き教室を借りられた段階で、リストヴァー大学の教育学部に話を持って行く。
「教育学部も、開講不能に陥った科目があるとお聞きしました」
「えぇ……教授たちが亡くなられましたので……」
ウェンツス司祭が沈痛な声を絞り出す。
フェレトルム司祭は、表情を引き締めて頷いた。
「学生さんには、その講義の代わりに大人向けの識字教室で先生役をしていただくことで、単位取得できるよう、教務に掛け合います」
「成程……」
地元司祭が相槌を打つと、大聖堂から派遣された司祭は瞳を輝かせて続けた。
「勿論、私もどこかの小学校へ教えに行きます」
「教材はどうなさいます?」
「聖歌の歌詞と楽譜を使うつもりです」
……礼拝も兼ねるのね。
フェレトルム司祭は、私物のタブレット端末をローテーブルに置き、聖職者用の聖典に掲載される楽譜を表示させた。
歌詞は、共通語の現代語訳と、力ある言葉、力ある言葉の読み方の三行ある。
一般信徒用の聖典には、共通語の現代語訳と現地語訳しか載らない。
司祭の指がするりと動くと、画面が切替わった。
手書きの楽譜だ。先の三行に加え、湖南語訳もある。
「毎晩、少しずつ書き写して、昨夜の時点で十七枚になりました」
「学校の印刷機をお借りできれば、識字教室に通う大人にも行き渡るのですが」
ウェンツス司祭が続きを飲み込む。
予算と物資が不足する中、そこまでしてもらえるものなのか。
フェレトルム司祭は、地元司祭の懸念を他所に明るい声で続ける。
「聖歌でしたら、一度くらいは耳にしたことがあるでしょう。曲を取っ掛かりにすれば、比較的、文字も覚えやすいと思うのです」
「しかし、これを大量に書き写すとなると……」
学生らに手伝ってもらうにしても、教材の準備だけで大変だ。
「古新聞でしたら、同じ物がたくさんありますが、いかがでしょう?」
「いきなり新聞の水準で学ぶのは、難易度が高過ぎて、初回で挫折する人が出るかもしれません。斯く言う私も、まだ、こちらの新聞が読めないのですよ」
クフシーンカが先程の思い付きを口にすると、バンクシア人のフェレトルム司祭は、首を横に振って肩を竦めた。
派遣から一年近くが経つ。
簡単な日常会話の聞き取りなら、ほぼできるようになったが、文字の形や文法が共通語とは全く異なる湖南語の読解は、まだ難しいらしい。
読み書きできない地元民と気持ちが近いのだろう。
……確かに文章は難しいけれど。
即座に役立つ情報を学べる点が、学習意欲に繋がる気がした。
仮設の家事を担当する青年も、それで、乗り気になったのだ。
ウェンツス司祭が折衷案を出す。
「授業は楽譜で行い、宿題として、聖歌に登場したのと同じ文字や単語を新聞の中から探すなど、読取る練習をしていただくと言うのはどうでしょう?」
「成程。いい案を有難うございます。授業中にも実演すれば、よりわかりやすくなりそうですね」
フェレトルム司祭は早速、タブレット端末をつついてメモを取った。
「楽譜の件は、心当たりのところへ相談してみます」
「どちらへ?」
ウェンツス司祭が聞いたが、フェレトルム司祭は曖昧な笑みを浮かべただけで答えなかった。
先程の案もどれだけ引受けてもらえるかわからない。
それでも、一歩、前へ踏み出せたことだけは確かだ。
☆救援物資の中にアーテル版の共通語辞書……「1491.連鎖する幸せ」参照
☆識字教室の必要性を痛感……「1577.大人への教育」~「1580.衣食足りても」参照
☆仮設の家事を担当する青年……「1579.役割の固定化」参照




