1582.足りない教育
星道の職人クフシーンカが、ウェンツス司祭の湖南語の発言を共通語に訳す。
大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭は、小さく頭を振っただけで、何も言わなかった。
地元のウェンツス司祭が、震える声で絞り出す。
「自治区民の人口に対して、聖職者は全く足りませんが、星の標を恐れて正式に神学を学ぶ者も少ないのです」
「教える人は……司祭様たち二人だけですか?」
魔装兵の一人が、司祭の声に合わせるかのように恐る恐る聞く。
「リストヴァー大学の神学科には、神学者も居りましたが、昨年のネミュス解放軍との戦闘に巻き込まれ、大勢亡くなりました」
「居るには居るんですね?」
魔法使いの兵士は何故か、顔を明るくした。
「えぇ……一応は……ですが、多くの住民の心は、暴力によって植え付けられた異端の教えと恐怖が、未だに抜けないのです」
「でも、クブルム街道で薪拾いとかする人たちは、我々の護衛を受け容れるようになってきましたけどね」
「仮設の人たちの困り事も、例えば【操水】で空缶を洗ってもよければ、部屋に仕舞えるようになって、盗まれ難くなるかもしれませんよ?」
クフシーンカが、魔装兵二人の提案を共通語に訳すと、フェレトルム司祭は表情を明るくして、礼拝堂で手仕事をする信徒を見回した。
話の途中から湖南語に変わったが、手許の作業に集中するフリをして、誰一人として顔を上げない。
「ここの警察は、星の標への報復を取締るのに忙しくて、被害額の小さい泥棒までは手が回らないようですし……」
「自衛できるなら、そうした方がいいと思うんですよね」
魔装兵たちに言われ、ウェンツス司祭が目を伏せた。
「密かに殺害して遺体をどこかに隠されては、後で魔物や魔獣による捕食被害が発生しかねませんので、警察の対応を責めることは致しかねます」
星の標に大切な人を奪われた者たちが、武器を取り上げられた異端者に憎悪や怒り、悲しみをぶつけることも、責められない。聖職者にできるのは、死者の魂の安寧を祈り、遺された者に寄り添うことだけだ。
リストヴァー自治区に配置された魔装兵は、魔物や魔獣に対する防衛と、星の標などの武装組織に対する監視と調査が、主な任務だ。
自治区民と交流を深めるのも、星の標の残党を殲滅せず、幹部である区長を退陣させないのも、交戦国であるアーテル共和国、その背後に控えるバルバツム連邦やキルクルス教団の動きを探る為だろう。
多くの自治区民にとって、魔物や魔獣に捕食されず今日を生き延び、食事にありつくことが最大の関心事だ。
政治は遠い話で、国同士の戦争も、自分たちの与り知らぬところで行われる手に負えない出来事でしかない。
魔装兵が自治区民に危害を加える気がないとわかれば、彼らに対する警戒は、信仰を同じくする“身内”である筈の星の標に対するより緩んだ。
ネモラリス政府軍上層部の思惑はどうあれ、派遣された現場の魔装兵には、人当たりのいい人物が多い。彼らは実際、山中のクブルム街道や山際の地区で、魔法を使って魔物や魔獣と戦い、自治区民を幾度も守ってみせる。
星の標は元より、地元の警察以上の信頼を勝ち得るまで、さして時間を要さなかった。
だが、その一方で、星の標とネミュス解放軍が結んだ協定や、解放軍が自治区民に助力した件は、政府軍の者に決して明かさない。
クブルム街道の再整備と山小屋の再建、そこを通じた物資や情報の支援もまた、自治区民にとって、命綱なのだ。
また、ネミュス解放軍は、リストヴァー自治区各地に点在する星の標の拠点を急襲し、たった二日で全てを制圧。徹底的に武装解除して無力化した上で、一方的な協定を結ばせた。
政府軍に解放軍の情報を漏らした場合、作戦を指揮したカピヨー支部長の耳に入りでもすれば、今度こそ、自治区を滅ぼされるかもしれないとの恐怖心もある。
クフシーンカの弟ハルパトールと共に平和を目指す活動をする者たちは、山小屋に救援物資を置く際、袋などに「盗みを働けば発動する強力な呪い」を掛けた。
星の標の残党が、自治区から逃げる途中で山小屋に立ち寄り、無断で持ち出したらしい。
それ以外で、緑髪の運び屋たちが山小屋に置く物資が盗まれたことはなかった。
……聖者様の教えよりも、刑罰や呪いの方が、防犯に効き目があるなんてね。
このリストヴァー自治区は、聖者キルクルスが掲げる知の灯に導かれた“理性ある信徒”だけが暮らす地ではなかったのか。
何故、ネモラリス共和国内のどこよりも貧しく、治安の悪い土地に成り下がってしまったのか。
「我々は、泥棒を捕まえる任務を与えられておりません」
「みなさんの力になりたいのはヤマヤマですが、勝手な真似はできないので」
「いえ、あなた方を責めたのではありません。全ては、不充分な教育が……」
ウェンツス司祭が、唇を噛んで項垂れる。
「教育? キルクルス教徒って勉強熱心なんじゃなかったんですか?」
「そこの中学の先生から『自治区の学費は自己負担ゼロ』って聞きましたけど」
魔装兵たちが戸惑った顔で礼拝堂を見回す。数人の信徒が、首を竦めるように小さく頷き、手許の作業に視線を落とした。
「確かに……学費は無料です。ですが……」
「何があるんです?」
「あまりにも貧しくて、小さい内から、朝から晩まで身を粉にして働かなければ生きてゆけない家庭が多いのです」
星道の職人クフシーンカは、肩を落としたウェンツス司祭に代わって答えた。魔装兵が、東教区を預かる年配の司祭を見る。
「学べない根本的な原因は、極度の貧困です」
フェレトルム司祭が、共通語で簡潔にまとめると、魔装兵は改めて礼拝堂を見回した。
☆クブルム街道で薪拾い/我々の護衛……「1326.街道の警備兵」「1327.話せばわかる」参照
☆昨年のネミュス解放軍との戦闘に巻き込まれ、大勢亡くなり……「1239.見えない命綱」参照
☆警察は、星の標への報復を取締るのに忙しく……「0991.古く新しい道」参照
☆現場の魔装兵(中略)自治区民を幾度も守ってみせる……「1326.街道の警備兵」「1327.話せばわかる」参照
☆星の標とネミュス解放軍が結んだ協定……「919.区長との対面」~「921.一致する利害」「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」参照
☆解放軍が自治区民に助力した件……「0941.双方向の風を」~「0943.これから大変」「0955.ラジオの録音」「0991.古く新しい道」参照
☆クフシーンカの弟ハルパトール……ラクエウス議員「0214.老いた姉と弟」参照
☆盗みを働けば発動する強力な呪い……盗んだ犯人「1037.盗まれた物資」「1038.逃げた者たち」→呪いの発動「1131.あり得ぬ接点」参照




