1580.衣食足りても
「ま、まぁ、今は毎日、寄付の堅パンとか配給あるし、学校行ってるチビ共は給食あるし、こんな立派な部屋でちゃんとした毛布で寝れるし、文句とかそう言うんじゃねぇんスよ。全然」
失業中の青年は明るい声で言うが、その笑顔には翳があった。
……保育所の整備と、傷病者や児童家庭の保護と……あぁ、何てことかしら。
クフシーンカは後で役所に掛け合うと決め、共同炊事場の棚を指差した。
「調理器具が少ないのだけれど、足りているかしら?」
「鍋とかもあったんスけどね。盗られちまったんスよ」
青年が俯いて拳を握る。
「でも、この台所には窓も煙突もないから、ぴったり閉まる戸を付けるのは、危ないわね」
「戸が危ねぇ? 何でっスか?」
青年は、貧しさ故に学校へ通えなかった。不完全燃焼による一酸化炭素中毒に関する知識がなく、危険を予測できないのだ。
星道の職人クフシーンカは、彼にもわかるよう、簡単な言葉で丁寧に説明した。
「じゃ、盗られるしかねぇんスか?」
「何とかならないか、大工さんたちに相談するわね。取敢えず、足りないお鍋とかは、予備がないか司祭様に聞くわ。他に困ったコトはない?」
青年は、共同のゴミ捨て場に顔を向けた。
「配給で出た缶詰の空缶も盗られたんスよ」
「まぁ……そんな物まで?」
「ゴミっちゃゴミなんスけどね。そこそこまとめて工場へ持ってったら、便所紙とか食いモンとか交換してくれるんで、なけりゃないで困るっつーか」
青年の声に悔しさと諦めが満ちる。
クフシーンカも、どうしたものかと頭が痛い。
「部屋に置くと、虫が涌いたりしてよくないし……困ったわね」
「それは司祭様や役所の人に何回も言われたんで、ちゃんと守ってるっスよ。なのに何でこんな……クソッ!」
東教区で計画された仮設住宅が全て完成してからは、バラック街だった頃より体感治安が向上した。
それでも相変わらず、窃盗は日常茶飯事で、平等に行き渡った筈の肌着や毛布でさえ、外に干せば行方不明になりがちだ。
正直者が馬鹿を見る状況が続けば、再び治安と衛生状態の悪化を招いてしまう。
だが、警察は星の標が活動を再開せぬよう、また、被害者や遺族が彼らに報復して手を汚さぬよう、監視するだけで手一杯だ。
被害者の生活への悪影響が大きくとも、野菜泥棒や下着泥棒など、バラック街の頃から頻発した「被害額が軽微な事件」には、取り合う余裕がなかった。
処罰されないなら、やった者勝ちな思考が蔓延しかねない。
……罰が発動しない法律や倫理が、こんなにも無力だなんて……知の灯だけでは、心の隅までは照らせないのかしらね。
それとも、他人を蹴落とし傷付けてでも、自分だけが得する為に捻り出す悪知恵も、知の灯に含まれるのだろうか。
星道の職人クフシーンカは、遣る瀬ない思いで、青年の震える肩を見詰めた。
今の東教区には、バラック小屋が一軒もない。
全員が社宅か恒久的な集合住宅、あるいはプレハブの仮設住宅に入居し、雨漏りも隙間風もない清潔な部屋に住む。
手入れの仕方を知らない為、入居以来、全く掃除できない者も居るらしい。
だが、区画整理でアスファルト舗装の道路が整備され、排水溝も隅々まで行き渡り、トイレの数も各段に増えた為、以前のように部屋が泥や排泄物で汚れることがなくなった。
世界中のキルクルス教徒が、報道でリストヴァー自治区の状況を知り、様々な団体を通じてたくさんの寄付を継続的に届けてくれる。
直近の一年は毎日、最低でも一食は口に入り、学校給食の頻度も上がった。
衣類も、充分とは言い難いものの、東教区在住者の身形は、バラック街だった頃とは比べ物にならない程よくなったのだ。
クフシーンカは、解雇を言い渡した針子見習いアシーナを思い出し、溜め息を吐いた。
「ここ……俺が就職したら、薪採りとかの用事できる奴、居ないっぽいんスよ」
「今はあなたが全部、引受けているのね?」
「そっス。でも、俺にできねぇコトはできる人がやってくれてンで、別に……」
「小学生の子たちは何年生かしら?」
「聞いてねぇっス」
「そう。でも、その子たちでも、学校の帰りに水汲みを手伝えると思わない?」
青年は共同の炊事場を振り返り、棚の下に置かれた二十リットル入りのポリタンクを見た。
「でも、今はあれしかねぇし、ガキ共にゃ無理っスよ」
「そうね。持てる大きさの容れ物があれば、少しでもできるんじゃないかしら。お掃除も、教えてあげればできるようになるでしょう」
「あるんスか? 水汲み用の小さい容れモン?」
「司祭様たちに相談するわ」
共同の家事が就労の足枷になっては、いつまで経っても貧困から抜け出せず、仮設での家事担当の役割が固定化してしまう。
「双子のお父さんも、誰かが少しの間でも、お子さんの面倒をみれば、水汲みや炊事、お掃除はできるんじゃないかしら?」
「あー……いや、でも、俺、チビガキの面倒なんてみたコトねぇっスよ?」
青年が、泣き声の止んだ戸に困った目を向ける。
「いいえ。あなたではなくて、他の誰かよ」
「他の誰かって? みんな無理なんスよ?」
「そうかしら? あなたが就職活動、双子のお父さんが共同の家事をするほんの少しの時間、それすらできないんなら、あなたたちはこの先、何年も働きに出られなくなってしまうわ」
青年は無言で自分の足下を見詰めた。
ブロック塀で囲まれた仮設住宅の敷地は、モルタルで舗装され、雨が降ってもかつてのようにぬかるまない。歩きやすく、掃除が楽にできるようになり、排泄物や嘔吐物が落ちておらず、雑妖の発生源ではなくなった。
空間的には、かつてのバラック街から生まれ変わり、明るく清潔、安全で住みやすくなった筈だ。
……どうしてこんなにも、生き辛いままなのかしら?
明るい春の陽を浴びて立つ青年の顔は暗い。
彼自身、生き辛さの原因がわからず、それ自体を言語化できないらしい。
以前より暮らし向きがよくなったのに何故――
「もし、俺や双子の親父に仕事が決まったら、誰が薪採りと水汲みと掃除とチビ共の世話すりゃいいんスか?」
「一度にみんな解決するのは無理だから、できるコトからひとつずつ、話し合いましょう。私も、何とかできそうな人に声を掛けるわ」
「話し合いったって、そんな……」
諦めと期待が綯い交ぜになった目が、老いた星道の職人に向けられる。
「取敢えず、お鍋の件は任せてね」
星道の職人クフシーンカは、責任感の強さ故に共同の家事に縛られ、自分の就職活動すらままならなくなった青年に何度も礼を言われ、隣の棟へ移動した。
☆空缶も盗られた/工場へ持ってったら、便所紙とか食いモンとか交換……「1451.台所を作ろう」参照
☆窃盗は日常茶飯事で、平等に行き渡った筈の肌着や毛布さえ、外に干せば行方不明になりがち……「276.区画整理事業」参照
☆解雇を言い渡した針子見習いアシーナ……「480.最終日の豪雨」~「485.半視力の視界」「904.逆恨みの告口」「905.対話を試みる」「918.主戦場の被害」「0940.事後処理開始」参照




