1577.大人への教育
教会の帰り、新聞屋の車で仮設住宅を回る。
目的は、各棟に新設する共同台所の工事進捗状況の確認と、完成した台所の稼働状況の視察だ。
本来なら、役所などがすることだが、彼らも人手不足で手が回らない。
住民の困り事が多いようなら、要望を汲み上げる仕組み作りが必要だ。
区議の多くが星の標かその賛同者で、そうでない者も、星の標とネミュス解放軍の団地地区での戦闘に巻き込まれた。生き残った区議は三分の一程だ。
あの戦闘から三カ月後に一度、欠員補充の選挙が行われた。
だが、候補者が定数に満たず、無投票で全員が当選。冬の大火、魔哮砲戦争、ネミュス解放軍の攻撃などによる影響で、供託金を払えなくなった者が増えた為だ。
一年経った現在も、定数の半分にも満たない。
……志と職務遂行能力があっても、おカネがないせいで立候補すらできないなんてね。
現行制度では、貧困率が高く識字率の低い東教区からは、立候補できる者が極僅かだ。
自分の名前だけは、何とか書ける者も居るが、多くは選挙公報を読めず、誰に投票すればいいかわからない。候補者の名前を書けなければ投票できず、民主主義の制度があっても、東教区ではないも同然だ。
……内乱時代に学校へ行けなかった大人や、貧しくて通学できなかった大人向けに識字教室も必要ね。
これまでは、少しでも生活費を得られるようにと、罹災者支援事業として、技術の習得や、すぐ使える日用品を作る手仕事を展開してきた。
役所も手を拱いてきたワケではない。税収が落ち込み、限られた予算と人手の中で、辛うじて補助金や生活支援金を捻り出す。だが、該当する貧困層の人々には告知の貼紙などが読めず、ラジオを持たない者が多い為、公的支援の存在すら気付かないのだ。
聖職者らが役所に協力し、礼拝で周知しても、全員が教会に足を運べるワケではない。リストヴァー自治区には教会が二カ所しかなく、人口に対して圧倒的に不足する。
公的支援の存在を知ったところで、自分の住所すら書けないのでは、申請書類が壁となって立ち塞がった。
大火の後始末を兼ねた区画整理後、各仮設住宅や集合住宅には、掲示板と郵便受けが設けられ、バラック街だった頃より遙かに情報が行き渡るようになった。
それでも、受け手側の識字率が低ければ、何も伝わらない。
東教区は、識字率の低さ故に投票率も低い。
権利があっても行使できず、リストヴァー自治区の行政に伝えられる民意は、人口密集地の東教区ではなく、富裕な知識階層が暮らす団地地区と農村地区のものばかりだ。
クフシーンカの弟はバラック街や工場地帯の商店街も回り、国会議員として要望を丹念に聞き取って歩いたが、区議たちはどうだろう。
「じゃ、俺は集金行ってきますんで」
新聞屋の店主が、クフシーンカを車から下ろし、仮設の戸を叩いた。
「あぁ……新聞屋さんですかい」
出て来た中年男性の顔が暗い。
星光新聞の専売所は、ネミュス解放軍の襲撃後、仮設住宅一棟を一世帯として、購読契約を結んだ。一棟十世帯から十二世帯が入居する為、一世帯当たりの一カ月の負担は、堅パン二パック程度の額で済む。
星光新聞社側としては、収益と情報支援ボランティアで、ギリギリの譲歩だ。
新聞屋の店主が口を開くより先に仮設住まいの男性が捲し立てた。
「ちょっと前まで、字が読める工員さんが、仕事終わってからみんなに読み上げてくれてたんだけどな。近頃は残業が増えて帰りが遅いから、読んでもらえる日が減ってンだ」
「そうなのかい」
「いやまぁ、今月分はちゃんと集めたから払えるんだけどよ、来月から、日曜祝日の分だけにしてくんねぇか?」
「料金か?」
新聞屋の顔が険しくなる。
この棟の代表者は、慌てて顔の前で両手を振った。
「いやいや、流石にそんな厚かましいこたぁ言わねぇよ」
「じゃあ、何だ?」
「俺らじゃ役所のお知らせやらなんやら、難しい単語が多くって手に負えねぇんだ。休みの日に一週間分まとめて読んでもらうのは申し訳ねぇし、読んでもらえる日の分だけ配達してくんねぇか?」
仮設のこの棟代表の男性は、強気か弱気かわからない調子で要求する。
「う~ん……それだと、日数が少な過ぎてアレなんだよなぁ」
「そこを何とか!」
新聞屋としては、首を縦に振れる話ではないだろう。
ただでさえ、赤字契約なのだ。配達の人件費などを考えれば、これ以上赤字を拡大させるワケにゆくまい。
「でもあんた、アレだぞ? 古新聞一カ月分と共同便所のトイレットペーパー何個か、交換してもらってんじゃなかったか?」
「あっ……!」
代表者の男性は固まってしまった。
その件は、話し合いの席で出なかったらしい。
「そりゃ、交換の分だけじゃ足ンねぇだろうけどよ、買うとなりゃ大変だ」
「そ、そうだな。ちょっと、もう一回、みんなと相談させてくんねぇか?」
「その間、配達続けて大丈夫か? 止めとくんなら、早めに言ってくれよ。日割りにすっから」
「早めにったって……」
「後で、やっぱいらねぇからカネ払わねぇってのは、ウチだって困ンだかンな」
代表者は泣きそうな顔で見回した。ワゴン車の前で成行きを見守る星道の職人クフシーンカと目が合う。
「新聞を教材にして、識字教室を開いたら、みなさん、出席できるかしら?」
「その……ナントカ教室ってなぁ、どんなモンですかい?」
彼の語彙には「識字」がないらしい。
「大人向けの字の勉強会ですわ。来られる方が多そうでしたら、あちこち掛け合いますけれど、いかがかしら?」
「そいつぁ、カネ掛かンですかい?」
「そうねぇ……場所は、小中学校の空き教室を貸していただけないか校長先生に掛け合うので、多分、無料です」
「全部タダッスか?」
代表者の顔が明るくなる。
「講師……先生役の人は、リストヴァー大学の学生さんに声を掛けて、学生さんへの支払いは司祭様たちに相談しますね」
「学生さんだったら、元手タダなのに……カネ払うんですかい?」
代表者の男性は、訝しげに首を傾げてクフシーンカを見た。




