1573.中級の技術者
菓子屋には、学生に対する報酬用の製菓材料を先渡しした。手間賃の支払いは、学生からの訳文が出揃った後と取り決め済みだ。
〆切を三月末までと言ったが、遅くなるようなら、彼が催促してくれるだろう。
東教区に新設された仮設の食品工場は今日、設置済み機械の整備が始まった。
菓子屋とパン屋、製麺所の合同工場は、幾つか販路を開拓したが、まだ始まってもいない。実際、どの程度の利益を手にできるか、先が読めない状態だ。
それでも、戦闘で店舗を失った彼らは、再び仕事ができるようになり、毎日、活き活きと料理教室の講師などとして働いて、本格稼働の日を待つ。
……若ければ、まだまだ何度でも、やり直しがきくのよ。
そろそろ百に手が届く高齢の身となっては、もう自分自身の為だけに何かをする気力が湧かなかった。
だが、不思議なもので、若者たちがよりよい明日を作れるよう、手助けするのは苦にならず、幾らでも動ける気さえする。
実際の我が身は、老いに削られ、誰かの手を借りねば、歩くことさえままならない。それにも拘らず、彼らの行く末を見守りたいなどと欲まで出てくるのだ。
……私も、子供たちや……孫が一人でも生き残っていれば、違ったのかしらね。
翌日は、新聞屋の車で東教会へ行った。
こちらのウェンツス司祭には、大学生に「冒険者カクタケア」シリーズの共通語訳を依頼した件を知らせてある。
クフシーンカは、いつこの世を去ってもいいよう、たくさんの引継書を用意し、適任と思われる人物に頼んで回った。
小説の翻訳は、菓子屋の亭主とウェンツス司祭に引継いだ。菓子屋と新聞屋の一家は、緑髪の運び屋フィアールカと面識がある。クフシーンカが居なくなったとしても、何とかしてくれるだろう。
教会や小中学校の空き教室で開講した裁縫と編み物の教室は、受講生の中から何人も上達者が現れ、今では初心者に教えられる程だ。
先週、尼僧から、指導役を買って出た中級者の名簿を受取った。
まだ、自力で型紙を起こせず、複雑な刺繍もできないが、それでも、この中程度の上達者たちのお陰で、クフシーンカが不在の日も教室が上手く回る。翻訳など、他のことに時間を割けるようになったのが、有難かった。
今日は祝日で、いつもより人が多い。
教わる者の中には、中学生や、小学校高学年くらいの子供の姿もあった。
「あッ! 店長さん!」
「お久し振りです」
「先生、おはようございます」
気付いた者たちが次々と声を掛け、他の者たちも顔を上げた。
「おはようございます。お休みの日にもよく頑張ってらして、みなさん素晴らしいですわ」
星道の職人クフシーンカに褒められ、三分の一くらいがはにかんだが、残りはすぐ自分の作業に戻り、数人が応えた。
「学校がお休みの日じゃないと、習いに来られないんで……」
「早いとこ手に職つけて、ちょっとでも生活費を稼ぎたいんだよ」
「入試なしでイチから教えてもらえるのって、ホント助かってます」
東教区の失業率は予想以上に深刻だ。だが、今のクフシーンカには、新しい支援事業を起ち上げる余力がない。少数の飲食店が営業を再開し、それに伴う雇用も生まれたが、自治区全体からしてみれば、微々たるものだ。
菓子屋たちが運営する共同の食品工場が本格的に稼働すれば、新たな雇用の受け皿になる。菓子屋の夫婦は、料理教室の講師をする傍ら、見込みのありそうな受講生に声を掛けると言ったが、採用は進んだだろうか。
「編み物とお裁縫は、直接のお仕事には結びつかなくても、技術さえしっかり身につければ、自分や家族の防寒具、袋や座布団と言った暮らしに役立つものが、作れるようになりますからね」
「材料は寄付のを分けてもらえますし、買うより安くていいですよね」
「毛糸は解けば作り直せるし」
「司祭様たちは奥かい?」
荷物を抱えた新聞屋の店主が、話をやんわり打ち切った。
「うん。司祭様は奥に居るよ」
「御寮人様は、倉庫に毛糸を取りに行ってて……」
「おっ、噂をすれば何とやらだ」
丁度、老いた尼僧と、段ボール箱を抱えた少年が、大扉から戻って来るのが見えた。
「ありがとうね。はい、これはお駄賃」
尼僧は、説教壇の隣に段ボール箱を置いた小さな手に飴玉を数個握らせた。少年は元気よく礼を言い、礼拝堂から駆けてゆく。
「御寮人様、それから、いつも私の代わりに教えて下さっているみなさん、ごめんなさいだけれど、奥で少し話をさせて下さいな」
クフシーンカが七人の名を呼ぶ。今日は七人全員が居合わせ、怪訝な顔をしながらも、作業を中断してついて来た。
新聞屋の店主は、応接室の入口に重い荷物を置くと、奥の執務室へ司祭を呼びに行った。
みんな何となくそわそわ落ち着かない顔で、質素な室内を見回し、誰もソファに腰を下ろそうとしない。
聖職者用の分厚い聖典を抱えた司祭が姿を見せ、新聞屋の店主が応接室の戸を閉めると、託児所代わりの集会室から漏れる子供らの声が聞こえなくなった。
ウェンツス司祭、高齢の尼僧とクフシーンカ、新聞屋、それに編み物や裁縫の中級者が七人。椅子が足りず、みんな遠慮して立ったままだ。
尼僧が、一同を見回して話し始めた。
「ご覧の通り、私と、こちらの縫製を掌る星道の職人クフシーンカさんは、高齢です」
「自治区には、星道記の縫製分野を修めた者が、もう私たち二人しか居ないんですの」
クフシーンカの説明に息を呑む音が重なった。
「冬の大火と解放軍の襲撃で、夏祭りの衣裳が大分焼けてしまいました」
「ですが、私たちに残された時間は、弟子を取る猶予が殆どないのです」
尼僧が育てた弟子は、大火とネミュス解放軍の襲撃で亡くなり、クフシーンカの弟子アミエーラとサロートカは、密かに自治区から旅に出た。
「あなた方は、私たちの跡を継ぐに相応しい方々だと思います」
「もし、よろしければ、聖典の深い部分を学んで下さいませんか?」
尼僧が問うと、七人の男女は、驚きと戸惑いに満ちた目で二人の老女を見詰め、東教区の司祭を見た。
☆東教区に新設された仮設の食品工場……「1453.仮設工場計画」参照
☆幾つか販路を開拓……「1454.職場環境整備」「1491.連鎖する幸せ」参照
☆菓子屋と新聞屋の一家は、緑髪の運び屋フィアールカと面識がある……「913.分配と心配と」「0940.事後処理開始」参照
☆少数の飲食店が営業を再開し、それに伴う雇用も生まれた……「1491.連鎖する幸せ」参照
☆菓子屋の夫婦は、料理教室の講師……「1452.頭の痛い支払」「1454.職場環境整備」参照
☆冬の大火……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」「0212.自治区の様子」~「0214.老いた姉と弟」参照
☆解放軍の襲撃……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照




