1571.内緒のお勉強
リストヴァー大学の一室では、今日も学生たちが翻訳作業に勤しむ。
ネミュス解放軍との戦闘で、教授らが何人も死亡し、アルバイト先の多くも失われた。
それでも大学に来るのは、自治区全体の役に立ちたいとの思いからだ。
翻訳するのは、バルバツム連邦の慈善団体「星界の使者」が、救援物資で送った食器の梱包材だ。同連邦で発行された直近の新聞で、過剰にあった割に包み方がいい加減で、大半が割れて届いた。
食器より、外国の新聞の方が役に立つ。
……何とも皮肉なものね。
「店長さん、お菓子屋さんも、こんにちは」
「こんにちは」
「どうだい? 捗ってるかい?」
クフシーンカは最近、週に三日は学生たちに交じって、共通語の新聞を湖南語訳する。だが、今回、菓子屋の亭主と共に来た目的は、古新聞の翻訳作業ではない。
今日、フェレトルム司祭は星の標への「再教育」、銀行員の妻はその補助として通訳にあたり、学生集会室での翻訳指導は休みだ。
クフシーンカは殺風景な部屋を見回し、他の大人が居ないのを確かめて言った。
「今日は別の教材を持って来たの」
「別の教材ってなんですか?」
学生たちが翻訳の手を止めて聞く。
「今までは、共通語の新聞を湖南語に訳してたでしょ? その逆、湖南語を共通語にする教材ですよ」
菓子屋の亭主が、大判封筒の束を机に置いた。一通の厚みはそれ程でもないが、数は多い。
「どんな文章なんですか?」
「先に読んだコも居るでしょうけれど、例の小説よ」
「えッ?」
学生たちに驚きや、ニヤけた笑いが広がる。
「楽しくお勉強できる方がいいでしょう?」
「え、えぇ、そりゃまぁ、俺たちは……なぁ?」
「え? ……えへへ……」
「でも、いいんですか?」
「司祭様たちお堅い大人と、子供たちには内緒よ。教材が教材ですからね」
クフシーンカが片目を瞑ってみせると、学生たちから嘆息が漏れた。
「俺、星道の職人って、スゲーお堅い大人だと思ってました」
「ふふっ。長生きしてると色々あるのよ」
男子学生たちが、何かわかったような笑みで応える。
「採点は私がするけれど、老い先短いから……そうね、取敢えず今月末までを目標に頑張ってちょうだい」
「店長さん、そんな淋しいコト言わないで下さいよ」
菓子屋の亭主が太い眉を下げる。
「そうは言っても、こればっかりはねぇ……」
クフシーンカは首を横に振り、若者たちを見回して声を明るくした。
「外伝と一巻から三巻まで、少しずつ分けて入れましたからね。どの場面が当たるかは、開けてみてのお楽しみよ」
知識階層の若者たちは怪訝な顔で、いつこの世から旅立ってもおかしくない星道の職人を見る。
「外伝って……ありましたっけ?」
大工の娘が、クフシーンカから菓子屋に視線を移し、仲間を見回す。学生たちは宙を見詰めて首を捻り、指折り数える者も居たが、誰も答えなかった。
救援物資のフリで、緑髪の運び屋から受取ったのは、一巻から最新の二十七巻までを九組だ。
クフシーンカは、軽い紙袋を机に置いて言う。
「製本されていない印刷が、他の梱包に入っていたのよ」
「えっ?」
「それって、出版社の人が、アーテルから送って下さったんですか?」
「スゲぇ」
予想外の答えで、若者たちが色めき立つ。
「多分、違うのではないかしら? 封筒は私が用意したものだけれど、中身は他の荷物に紛れていたのよ」
「店長さんにも、どこのどなたが寄付して下さったかわからないんですか?」
「メモには、インターネットで無料公開された分を印刷しましたとは書いてあったけれど、署名も何もないのよ」
クフシーンカが困ってみせると、驚きの種類が変わった。
インターネットから印刷した小説と一緒にもらった辞書は、あれから数回に分けて、先に学生集会室に置いたが、まだ誰も、あれがアーテル共和国で出版されたものだとは気付かないようだ。
「えっ? インターネットって、タダで小説読めるんですか?」
「確か、区長さんは、例のアレでアーテルの知り合いが買ってくれた新聞を読んでるとか聞いたような……なぁ?」
「うん。何か、前にちらっと聞いたよな。料金あっち持ちでって」
「えぇー……?」
「でも、これ、一巻から三巻までは本があるのに?」
「試供品みたいなモンじゃないの?」
「本、丸ごと四冊も?」
「流石にそれはないでしょ?」
学生たちは、腑に落ちないようだが、クフシーンカは緑髪の運び屋から聞いただけで、実際の様子を知らず、これ以上は何も言えなかった。
「分けて配りやすい形だったから、教材によさそうだと思ったのよ」
「店長さん、ちょっとだけ見せてもらっていいですか?」
「どうぞ。レポート用紙も一冊ずつ入れてありますから、見た分はあなたが担当して下さいな」
クフシーンカは、おっかなびっくり封筒に手を伸ばした学生に微笑んだ。
「もう全部、配っちゃいましょ」
菓子屋の亭主が苦笑して、上から順に手渡してゆく。目分量で一人二通ずつ渡したが、それでも中途半端に余った。
学生は瞳を輝かせて中身を出す。
「ここで作業して、司祭様たちにみつかると大目玉ですからね」
「はい。それは勿論……」
「自分の部屋がある奴は、家ですればいいよな」
「えっ? じゃあ、仮設のコはどうすんの?」
星の標とネミュス解放軍の戦闘に巻き込まれ、団地地区の店舗や住宅も多数、破壊された。
鉄筋コンクリート造の団地も、道路に面した棟が軒並み被害を受け、到底、住める状態ではない。
ネミュス解放軍は魔法で瓦礫を撤去し、全壊した建物は更地になったが、流石に建直しまではしない。半壊や軽微な損傷の建物は、ガラス片などは片付けたが、修繕には手を付けなかった。
星の標が、何ひとつ後始末できないことを思えば、復旧・復興の準備が一気に進んだ分、遙かにマシと言える。
だが、団地は修繕工事が思うように進まず、あれから一年近く経つ今も、団地内の公園などに用意された仮設住宅で暮らす世帯が多かった。
戸建住宅も、大半の世帯が、更地になった自宅敷地にプレハブ小屋を建てて暮らす。クフシーンカの自宅は無事だが、通りに面す仕立屋の店舗は全壊し、再建を諦めた。
建築職人の手も足りないが、被害を受けた個人商店は、店舗の損壊で収入を絶たれ、自宅の再建を諦めざるを得ない世帯が多数に上る。
学生にできるアルバイトは限られ、それも、失業した大人と取り合いになる。講義の多くが自習になっても、大学しか居場所がないのだ。
バルバツム連邦の古新聞を翻訳すれば、星光新聞リストヴァー支社が、訳文を食料品などと交換してくれる。外国の新聞は、翻訳後、資料として大学図書館で保管されることになった。
「それと、これはいつも頑張ってくれてるみんなに差し入れよ」
クフシーンカが、紙袋から小分けにした紅茶の小袋を出すと、ふっつり口を閉ざした学生たちの顔が明るくなった。
☆ネミュス解放軍との戦闘で、教授らが何人も死亡……大火「311.集まった古着」、戦闘「1239.見えない命綱」参照
☆翻訳するのは(中略)食器の梱包材/大半が割れて届いた……「1358.積まれる善意」「1394.得られた情報」参照
☆フェレトルム司祭は星の標の「再教育」……「0941.双方向の風を」「0942.異端者の教育」「1007.大聖堂の司祭」「1008.動かぬ大聖堂」参照
☆例の小説……「1199.大流行の小説」参照
☆一巻から最新の二十七巻までを九組……「1199.大流行の小説」参照
☆区長さんは、例のアレでアーテルの知り合いが買ってくれた新聞を読んでる……「505.三十年の隔絶」「630.外部との連絡」参照
☆料金あっち持ち……「276.区画整理事業」参照
☆インターネットで無料公開された分を印刷/クフシーンカは緑髪の運び屋から聞いただけ……「1483.出版社に依頼」→「1491.連鎖する幸せ」参照
☆星の標とネミュス解放軍の戦闘に巻き込まれ/仕立屋の店舗は全壊……「918.主戦場の被害」参照
☆ネミュス解放軍は魔法で瓦礫を撤去……「0939.諜報員の報告」「0940.事後処理開始」参照




