1569.知による解放
「本日、このジンクム教会にお越しのみなさんは、日曜がお休みの方や、有給休暇を取得できた方、主婦や退職者、学生など、職業や立場は様々でしょうが、共通点があります。何だと思いますか?」
チェルニテース司祭が問うと、先程より多くの手が挙がった。
司祭に求められ、青年が立って答える。
「共通語がわかる人……ですか?」
「ご回答、有難うござます。そうですね。それも共通点のひとつです。みなさんは、大変勉強家でいらっしゃいます。私も湖南語を勉強中ですが、なかなか、みなさんの共通語の水準に届きません」
司祭は続けて、少し離れた席の老人に答えを求めた。
「この日、この時間に、都合をつけられたことではありますまいか」
老人の答えに失笑が起こった。
あちこちの席で俯いて肩を震わせ、笑いを堪える姿が見える。
チェルニテース司祭は、他の信徒に対するのと同じ微笑を老人に向けた。
「ご回答、有難うござます。その通りですね。お仕事の方や、家事や育児、介護などで手が離せない方、ご自身が入院中の方などは、教会に来られません」
忍び笑いが消え、信徒たちの目が、着席した老人とチェルニテース司祭に向けられる。
「多くの方が、日曜にお休みできますが、インフラや情報通信、物流、小売、医療、介護、飲食や娯楽産業などに従事される方々は、今、この瞬間にも、働いていらっしゃいます」
信徒たちが頷き、あちこちから感謝の祈りを捧げる囁きが起きた。
「では、家事はどうでしょう? 住み込みの使用人は大抵、日曜もお仕事がありますね。使用人が居ないご家庭はいかがですか? 前から三列目のみなさん、座ったままで結構です。あなたの家では、主にどなたが家事をなさるか、こちらの端から順に教えて下さい」
木製の長椅子は一脚十人掛けで、両端の二脚だけは、五人掛けが斜めに置いてある。六十人の信徒は、短く答えた。
最も多いのは、妻。
次が母と、女性の自分自身。その次は夫婦で同じくらい。男性の自分自身と使用人が同数で続き、父と夫は最下位だった。
「ご回答、有難うございました。他のみなさんも、ご家庭で、いつも特定の誰かに負担が集中していないか、振り返ってみて下さい。その人に負担が集中する理由は何故でしょう?」
司祭は、妻と答えた男性に答えを求めた。
男性は、流暢な共通語で澱みなく答える。
「他所様はどうかわかりませんが、我が家は、役割分担を決めてあるからです。私が会社で働いて家計を支え、妻は家事一切を取り仕切っております」
「奥様は今日、ご一緒ですか?」
「いえ、子供がまだ小さいものですから、息子と留守番です。家で司祭様のお話を聞けるように、いつも録音させていただいております」
会衆席から疎らな拍手が起こった。
チェルニテース司祭が、中年男性にやわらかな微笑で頷く。
「そうですか。奥様によろしくお伝え下さい。……奥様は何かお仕事のご経験をお持ちですか?」
「子供ができるまで、設計事務所で図面を引いておりました。悪阻が重かったものですから、辞めた方が家事と育児に集中できていいと、今はずっと家に居ます」
「それは大変でしたね。お子さんは今、お幾つですか?」
「先月、三歳になりました」
先程より大きな拍手で礼拝堂が沸いた。
「可愛い盛りですね」
司祭がにっこり微笑む。父親の後ろ姿からも、嬉しげな様子が伝わった。
「まだまだ手の掛かる年頃で……」
「その間ずっと、奥様は働きに出られず、家庭内で貧困の状態に置かれるのですが、お気付きですか?」
「なッ……! お言葉ですが、司祭様、私は毎月きちんと給料を家に入れて、仕事が終わったら、飲み会を断ってすぐ帰りますし、女房子供に一度だってひもじい思いをさせたことなんてありませんよ」
司祭は頷き、変わらぬ穏やかな声音で言った。
「そうですね。あなたの立場ではそうです。しかし、奥様の立場から見ると、いかがでしょう?」
「妻の立場から……?」
司祭は、彼の答えを待たずに言った。
「専門家としてのキャリアを捨て、家事と育児に専念して、生活費をあなたの収入に依存せざるを得ない状態です」
「そ、それの何がいけないんです? 妻自身が、仕事と両立は無理だって言ったんですよ?」
礼拝堂内に不穏な空気が満ちる。
……えぇ……? 何この礼拝?
ファーキルは実家に居た頃、両親に連れられて毎週、教会に連れて行かれたが、こんな礼拝は初めて見た。
視聴者の困惑を置き去りにして、動画はどんどん進む。
「どこの国にでも、家庭を顧みず、収入の大半をお酒や賭け事など、自分の楽しみだけに費やしてしまう残念な人が居ます。しかし、あなたはきちんと生活費を渡して、立派な方です」
中年男性は、無言で説教壇の司祭を見上げる。
「今日も、奥様の為に礼拝を録音なさっておられるのでしたね?」
「えぇ。息子がまだ小さくて、連れて来るとみなさんのご迷惑になりますから」
場の空気がやや緩み、信者たちがぎこちなく頷く。
「奥様は、その録音をゆっくり聞ける状態ですか?」
「……そりゃ、ずっと家に居ますし、聞くだけなら、何か家事をしながらでも聞けると思いますよ?」
「あなたは、奥様が礼拝の録音を聞けたかどうかも、毎日どんな状態で家事と育児をするかも、ご存知ないのですね」
「だって……仕方ありませんよ。私は平日ずっと、仕事で留守なんですから。一日中、一人息子と一緒に居られて羨ましいですよ」
……聞けると思いますって何だよ? ツッコミどころ満載じゃないか。
仕事で家を空けても、夕飯時などに今日の家や子供の様子を聞くなど、妻の話を聞く機会が、何か一度でもなかったのだろうか。
息子と一緒に居られる妻を羨みながら、折角の休日に我が子の相手をせず、一人で礼拝に来るのは何故なのか。
動画の中で、様々な年齢層の女性信徒が、彼に顔を向けた。
横顔は一様に険しい。きっと、ファーキルよりずっと敏感に「何か」を察知したのだろう。
「奥様はお子さんの誕生以降、一度でも、普段の礼拝に出席なさったことがありますか?」
「……いいえ……あの、司祭様、先程から何故、私の家庭の事情を根掘り葉掘り聞くんです?」
女性たちの視線が、若きエリート司祭に移った。
「失礼しました。しかし、あなたも、他のみなさんも、これらの質問によって、気付きを得られませんでしたか?」
礼拝堂内に湖南語の囁きが満ちる。
「奥さんの話、全部、聞き流してるんじゃないの?」
「仕事で疲れてるとか言って、聞かないんでしょう」
「お子さんの教育のコトとか、言わない筈ないのに」
「家事と育児は三百六十五日、年中無休なのにねぇ」
「息子さんのお世話は、夫婦交代ですればいいのよ」
「隔週なら、二人とも礼拝に出られるんですけどね」
彼の近くの席から次々と女性の声が上がる。
独身のチェルニテース司祭が、共通語で男性に問う。
「今、ご意見ありましたが、そうなさらなかったのは、何故でしょう?」
「……全く思い付きませんでしたし、妻も、そんな話は一度もしませんでした」
男性は反発しながらも、きちんと答えた。
「この国の教育制度は大変素晴らしいのですが、社会福祉の面は、まだ残念な状態と言わざるを得ません。そんな中で、自らの収入源を失った奥様が、家庭の収入源であるあなたに対して、あなたの負担が増えるであろう要望を遠慮なく、気軽に伝えられるでしょうか?」
礼拝堂の空気が凍りついた。
件の男性は、声もなく俯く。
……これ、家に波風立ちまくるよな?
ファーキルは、これがきっかけで離婚にならないか、他人事ながら胃が痛んだ。
子供の為に離婚を思い留まったとしても、「お前のせいで恥をかかされた」などと、妻に矛先が向かないか、心配が次々涌いてくる。
「奥様は今、ご家族と共に暮らしておられますが、孤独の闇に囚われてはいませんか?」
司祭の一言で、礼拝堂内の視線が彼に集中した。
「しかし、知の灯によって、貧困や不自由、孤独の闇から解放し、対等な存在として、共に歩めるようになります」
男性は下を向いたままだ。
「知の灯によって、日々の事柄を隈なく照らし、そこにある問題に気付いて下さい。当事者は勿論、先人や専門家、公的機関などが掲げた知の灯は、解決へと導く道を明るく照らします」
老婦人が司祭に頷き、隣の彼に何事か話し掛けると、件の男性はようやく顔を上げた。




